国民の命よりカネを優先する、脇田隆字新型コロナウイルスに関する専門家会議座長(国立感染症研究所所長)と横倉義武日本医師会会長
国民の命よりカネを優先する、脇田隆字新型コロナウイルスに関する専門家会議座長(国立感染症研究所所長)と横倉義武日本医師会会長
新型コロナイウルス感染症(VOID-19)によるパンデミック(世界的流行)はさまざまな権力関係を明らかにしてくれています。世界の地政学に関心をもつわたしとしては、さまざまな観点から考察すべき事例がたくさんあるのですが、今回は日本の事例について紹介してみましょう。もっともわかりやすい事例だからです。
PCR検査を抑止して疫学調査を重視した日本
日本経済新聞の2020年3月11日付の記事(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56568590Z00C20A3I00000/)に「新型コロナ、日本の検査遅らせた「疫学調査」」があります。矢野寿彦編集委員が書いたものです。その出だしはつぎのようにはじまります。
「新型コロナウイルスに対する日本の検査数はなぜ海外に比べて少ないのだろう。感染の有無をみるPCRの検査力に問題があったわけではない。厚生労働省が当初、医療行為としてではなく、感染の拡大を抑える「疫学調査」として、この検査を選択したからだ。ただ、思うように封じ込めはできず、世界でも感染が広がっていった。専門家と一般の人々の認識にずれが生じ、社会に「過少検査」への不安と不満が生まれた。」
ここでいう疫学調査とは何かというと、つぎのような説明があります。
「疫学調査とは新しい感染症が発生した際、感染者や濃厚接触者、疑いがある人の健康状態を調べ、病気の特徴や広がりといった感染の全体像をつかむ調査だ。患者一人一人を検査して治療する医療行為ではなく、感染防止策を探るなど病気から社会全体を守る公衆衛生の発想に基づく。」
なぜ疫学調査を優先したかというと、それについてははっきり書いてあるわけではありませんが、「感染研は必要な試薬や装置を組み合わせて自前で確立した検査手法にこだわった」と指摘しています。はっきり言えば、自前の検査キットを開発して、それで大儲けをしようと企んでいたのです。
2020年2月15日付の日本経済新聞の記事「新型肺炎検査キット、企業が開発着手 実用化には時間」(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55696010V10C20A2EA2000/)によれば、「2002年に流行したSARSに対し高精度の検査キットを開発した栄研化学は「ランプ法」という独自の遺伝子増幅技術に強みをもつ。PCRと同水準の精度で、1時間ほどでウイルスを判定できる。新型コロナウイルスにも技術を応用できるとみられる。」とあります。日本の企業に検査キットをつくらせて「儲ける」というのが感染研のやり口であることがわかります。
VOID-19の場合には、「国立感染症研究所は新型コロナウイルスの分離や培養に成功しており、寄託を受けた医薬基盤・健康・栄養研究所(大阪府)が月内にも企業や研究所に配布する。早ければ今夏にも検査キットが登場する可能性がある」というわけです。
脇田を中心とする感染研の利益優先のやり方のために、日本のPCR検査はいっこうに進みませんでした。本当は、「1月末には中国の国立研究所と江蘇省の企業が、短時間でウイルスの有無を調べられる技術を開発したと発表。ロシュも診断薬メーカーの独ティブモルビオルと共同で検査キットを開発した。」と2月15日の日経新聞は伝えています。さらに、「ロシュはPCR法という遺伝子の増幅技術を活用。解析に必要な検体の処理を含めて3時間半で感染の有無を判定できるという。医療現場で診断に使える体外診断用医薬品としての承認は取得していないが、研究用試薬として中国湖北省武漢市に提供した。現地当局の判断で検査に使えるようにした。」
というわけですから、本当であれば、こうしたキットを導入して日本でもPCR検査を増やせばよかったのです。ところが、「中国・武漢をはじめ世界に供給していた製薬世界大手ロシュの検査キットを使って国内の民間会社が検査をし出すと、検査の性能のばらつきで疫学調査にとって最も大切なデータの収集が難しくなる」ことを理由に、感染研はPCR検査をさせないように圧力をかけつづけました。3月9日時点で、PCR検査数が2万件ちょっとというのはどういうことなのでしょうか。
はっきり言えば、脇田らは国民の命を軽視して自分たちの疫学研究や利益を優先したのです。さらに、彼らは「ダイヤモンド・プリンセス号」でVOID-19を蔓延させました。それでいて、まったく問題がなかったと責任もとらない。謝罪もない。
いまになっても、PCR検査をどんどんやれば、医療崩壊につながっていたという、まったく出鱈目な主張をイタリアを例にして話しています。これは嘘です。適宜、PCR検査を増やしても、ドイツのように症状のない陽性者は自宅隔離にすればいいのであって、症状に合わせた治療体制を整えれば医療崩壊など起きないのです。むしろ、初期症状のある人をどんどん検査することで、感染者の早期発見につながるし、陰性だった人には安心感をもってもらえるのです。
「検査漬け」の理由
日本国民に気づいてほしいことがあります。感染研は国民を「検査漬け」にすることで「ぼったくり」をつづけているのです。矢野は記事のなかで、つぎのように指摘しています。
「「検査漬け」という言葉があるように、日本では誰でも病気になったら医師の判断で血液検査や画像検査を受けられる。国民皆保険なので自己負担も少ない。世界を見渡せばこれほど臨床検査へのハードルが低い「検査大国」は珍しい。」
この指摘はきわめて重要です。わたし自身もこうした「検査漬け」にだまされて、もう何十年も毎年、「人間ドック」に言っています。早期発見が重要だとふれこみですが、コストに見合った結果がある保証はまったくありません。VOID-19騒ぎはこうしたカネ塗れの感染研の体質を明らかにしてくれたと言えるのではないでしょうか。
そればかりか、こうした連中と政治家が結託していることもわかります。そもそも脇田のような輩が政府の新型コロナウイルスに関する専門家会議座長を務めていることこそがその証です。カネ優先の人物を専門家に仕立て上げて、こうした連中と検査キットで金儲けをする企業から多額の政治献金をもらっている政治家がいるという構図です。
日本医師会もカネ儲け優先
横倉義武が会長を務める日本医師会も同じです。論座「「オンライン診療」を推進せよ」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020030700002.html)に書いたように、VOID-19の要望書のなかに、「オンライン診療」の拡充を盛り込まない日本医師会は自らの既得権を守ることしか考えていないのです。患者の命よりも既得権を優先させようとしていることは明らかです。
そして、ここでも自民党などの政治家が登場します。こうした「悪」と結託して、自らの利益につなげようとするわけです。そこにも、国民の命を守ろうとする姿勢は感じられません。そうした気概があるならば、「オンライン診療」推進のために、国会で横倉をつるし上げるくらいのことをすべきなのです。どうやら立憲民主党の議員にもそうしたことができないでいるようです。マスメディアも同じです。巨悪の一つ、「日本医師会」くらいを糾弾しなければ、日本の医療制度は悪くなるばかりでしょう。
そもそも専門家とは
ここで、このサイトで取り上げた「専門家を疑いなさい」を再論しておきたいと思います。専門家を意味する英語には、expertやprofessionalがある。前者はラテン語のexpertusというexperiri(試みる)の過去分詞を語源とします。19世紀初頭から「熟練者」という意味で使われるようになります。これは、新しい産業社会において、専門性の高さが求められるようになったことと関係しています。後者は18世紀以降、ラテン語のamator(愛する人)を語源とするアマチュア(愛好者)と対をなす「職業人」という意味合いを強くもっていました。重要なことは、専門家が技術と結びつけられることで技術に習熟していない者と区別するかたちで生まれたことです(技術を意味するtechnologyも同じころに機械にかかわる技芸として、芸術を意味するartから区別されて登場することに注意してください)。
ところが、いま言われている専門家は具体的な技術と結びついているというよりも、学識のような曖昧なものに関連づけられているだけで、実に心もとない。産業社会が細分化・高度化するにつれて専門家の必要性は高まりましたが、その分、専門家の定義やイメージがぼんやりとしてしまいました。その結果、どんなことが起きているかというと、「似非専門家」の類が急増し、そうした人々を政治的に利用しやすい状況が生まれているのです。
至る所にある権力関係
ここで確認しておきたいのは、権力関係の遍在です。政治と権力が密接に関係していることは周知のとおりですが、たとえば学問と権力が不可分であることに敏感である人は少ない。学問は本来、真理の探究といった高尚なものだと考えている人がいるとすれば、それはまったくの誤解です。学問はあくまで既存の知識に学びつつ、問いただすものであり、そこには過去の学識への挑戦という権力闘争が常に潜在するのです。地動説を説いたニコラウス・コペルニクスやカリレオ・ガリレイなどとキリスト教会との厳しい対立を思い出してもらいたいと思います。同じように、芸術もまた権力闘争の場であり、既存権力に歯向かうかたちで印象派も生まれてきたのです。
こう考えると、専門家が決して「真・善・美」のようなものを追い求める者ではなく、権力闘争のなかで翻弄されていることに気づくでしょう。つまり、専門家の助言を理由にして政治的決定をくだしながら、その助言の裏で専門家を操り、自らの責任を隠蔽して専門家に責任を転嫁するといった事態が簡単にできることになります。
安倍一強のもたらしたもの
ここまでくれば、安倍晋三政権がもたらした歪みが政治権力闘争だけでなく、学問の場にも悪影響を顕著なかたちでもたらしていることがわかるはずです。具体的に記せば、新型コロナウイルス感染症対策専門家会議のメンバーは権力関係のなかに埋め込まれており、翻弄されている。すぐに気づくのは、ダイヤモンド・プリンセス号の乗客を、公共交通機関を使って帰宅させた事例ですね。真っ当な専門家であれば、COVID-19の実態がわからない以上、最悪の事態に備えるべきであり、その発言も慎重であるべきだったのです。発信源の中国の実態が把握しにくいことを考慮すれば、中国の専門家が置かれている政治的圧力をも鑑みながら、彼らの報告をそのまま受け入れることにも慎重であるべきだったと言えるでしょう。
致死率が高ければ、感染者は動き回ることもできずに死んでしまうので、感染力は高いとは言えない。その意味で、何よりもまず、感染者数の把握がCOVID-19を知るうえでもっとも大切なのですが、このわかりきった事実に対して、中国も日本も政権側がその数を少なくみせかけようとしてきました。日本の場合、PCR検査を抑制することでそれを行っているわけです。にもかかわらず、感染症や医療の専門家からのPCR検査拡大の声があまりにもか細い。その結果として、感染者数が少ない状況がつづいています。そして、それが当初の国民の危機意識を弱めてしまいました。
いまになって、2020年1月19日に中国政府が国家衛生健康委員会専門家グループの責任者に任命した鐘南山医師の毅然とした態度に注目が集まっています。2002~2003年に流行した重症急性呼吸器症候群(SARS)の感染抑制に成功した立役者として知られる彼は、ときに政府と対立しながら果敢にCOVID-19に挑んでいます。それに対して、前述の専門家会議の座長の脇田隆字国立感染症研究所所長は、東京オリンピック・パラリンピックを前にCOVID-19の感染を少しでも小さく見せかけたい安倍政権の圧力に屈してしまったようにみえます。専門家としては、政府に寄り添いすぎているようにみえるのです。
他方で、ダイヤモンド・プリンセス号内に入り、「カオス状態」と告発した神戸大学感染症内科の岩田健太郎教授への圧力も相当なものであったと想像できます。
わたしの経験
学問が権力闘争の場であることは、わたしのわずかな経験からもよくわかります。それは、2013年末から2014年春に起きた「ウクライナ危機」と呼ばれる事件で経験したものです。この危機はウラジーミル・プーチン大統領によるウクライナ領であったクリミア半島の併合という結果をもたらしました。ゆえに、当時のバラク・オバマ大統領はプーチンを非難し、対ロ経済制裁に踏み切りました。それに欧州連合(EU)諸国や日本も参加するように強制された。しかし、ウクライナ危機の実態をよく知る専門家からみると、その引き金を引いたのは当時、米国務省次官補だったヴィクトリア・ヌーランドであったことは間違いない、とわたしには思われます。ナショナリズムを煽動し、武力によって民主的に選ばれた当時のヴィクトル・ヤヌコヴィッチ大統領を退陣させたのです。つまり、危機の直接の原因は米国によって仕組まれていたとみなすべきなのです。
こうした事情を2014年4月の段階で、本にしようとしたのがわたしでした。だがその段階で、すでに日本の主要新聞は米国政府の一方的な主張を鵜呑みにする社説であふれていました。わたしはかつて2冊の本を出したことのある岩波書店の編集者である山田まりさんに出版を依頼しました。彼女は「刮目すべき内容」と評してくれましたが、岩波書店は刊行を見送った。権力闘争に敗れたのです。
仕方ないので、2014年4月22日付で『ウクライナ・ゲート:危機の本質』をアマゾンの電子書籍として出版しました。その後、社会評論社から書籍として2014年10月になって、『ウクライナ・ゲート:「ネオコン」の情報操作と野望』が刊行されるに至るのです。
無視によって同意する?専門家
わたしは、拙著『プーチン2.0:岐路に立つ権力と腐敗』(2012年)というタイトルからもわかるように、プーチンにきわめて批判的でした。だが、『ウクライナ・ゲート』では、親プーチンと誤解されることなった。皮肉なことに、その結果、米国からの圧力に苦しむ安倍政権にとって、筆者の書いた『ウクライナ・ゲート』は「好都合」なものでありました。ゆえに、わたしは安倍政権による直接の圧力を受けてはいません。ただ、こうした出来事を通じてよくわかったのは、専門家が政治性を帯びており、権力闘争のなかに巻き込まれている実態であったのです。
いまでも、クリミア併合を理由にロシアを批判する専門家がいます。こうした人たちは明らかに米国や日本の政府に肩入れしている。その一方で、「心ある専門家」はどうしているかというと、無視を決め込んでいるのです。
わたしの言説には賛成だが、表立って賛意を示すと、親米勢力に目をつけられるから、黙っているというわけです。わたしは『ウクライナ・ゲート』のなかで、実名で志位和夫共産党委員長の国会質疑を批判しました。「悪いのはロシアだ」として、追加制裁を迫る志位の不勉強を指摘したのですが、こうすることで、今度は左翼からにらまれことになった。これが、学問の世界の実態なのです。つまり、権力闘争によって事実が歪められかねない状況にあるというわけです。
徐々に悪い方向に向かう日本
実は専門家の多くは、「真・善・美」に向かって努力しているわけではありません。否が応でも権力闘争に巻き込まれざるをえない専門家は「忖度」しなければ「制裁」が待ち受けています。そうした事実があるからこそ、長期にわたって安倍政権のような権力が日本を支配してきた悪影響ははかりしれないのです。森友・加計学園騒動や「桜を見る会」事件で、官僚の「忖度」が公文書の改竄や隠蔽につながったことは明らかですが、そうした「忖度」は専門家のかかわる学界にも広く浸透しています。マスメディアも同じです。「どんどん悪い方向に向かっている」と言えるのではないでしょうか。
どうか、そうした厳しい状況に専門家が置かれていることを知ってほしいと思います。だからこそ、「専門家を疑いなさい」と声を大にして言わざるをえないのです。そして、そうした専門家を利用する政治権力に目を光らせてほしい。
その意味では、今後予想される、「日本にも米国のような感染予防管理センター(CDC)をつくれ」という大合唱に騙されはいけません。これでは、「焼け太り」になってしまう。カネのために命を犠牲にするような感染研を中心にCDCをつくるのであれば、それは本末転倒でしかありません。
最後に、ここまで書いてきた者の責任として、ここでの筆者の考察も「大いに疑ってほしい」と記しておきたい。最近、わたしは自分を「ナラティブライター」と呼んでいます。これは、いわば、「語り部」を意味している。検索エンジンにアクセスするだけで、さまざまの事項の理解が進む現在、大切なのは事項の内容ではなく、事項が紡ぎ出す「ものがたり」ではないか。そう考える筆者は「ナラティブライター」として、今後もものがたりを伝えていきたいと考えています。
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