『サイバー空間の地政学』
『サイバー空間の地政学』
塩原俊彦
このところ、『サイバー空間の地政学』という原稿を書いていました。その過程で痛感したのは、中国のしたたかさです。米国政府は拙著『ウクライナ2.0』で指摘したように、ジミー・カーター大統領のもと、国家安全保障問題担当の大統領補佐官を務めたズビグニュー・ブレジンスキーがとったソ連支配下の人々への民主化支援という政策を、「民主主義の輸出」というかたちでいまでも継続しています。その「効果」はソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)によって急拡大し、2010年以降のいわゆる「アラブの春」や2014年のヴィクトル・ヤウコヴィッチ・ウクライナ大統領の打倒につながったのでした。
もちろん、民主化しても、その定着には社会を構成する中間層の成長などの条件が必要です。その条件を無視して無理やり民主化しても、イラク、イエメン、シリア、リビアなどでみられるように、国家は混乱するばかりです。その意味で、歴史は米国政府の闇雲な「民主主義の輸出」の失敗、間違いを教えています。
中国での「ビッグ・ブラザー」構築
その一方で、中国はなにをしてきたかというと、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に登場する「ビッグ・ブラザー」づくりです。インターネットを通じて流入する海外情報については、「金盾工程」、すなわち、〝Great Chinese Firewall〟と呼ばれるインターネット上のアクセス遮断可能な障壁を設ける決断をしました。「窓を開けると、新鮮な空気とともにハエが飛んでくる」ために、こうした「ハエ」を入れない工夫をしたわけですね。
中国政府は国内にもいる「ハエ」を監視する「ゴールデン・シールド」と呼ばれる検閲制度も導入しました。この検閲にために、三万人から五万人の要員が配されているようです。
おまけに、国務院は2014年6月、「社会信用体系構築計画綱要(2014~2020年)」を発表しました。「社会信用体系」(Social Credit System)を中国全体に張り巡らせることで、より強固な「ビッグ・ブラザー」体制を構築しようとしています。社会の持続的発展のために「信義誠実の欠如」という問題を改善する目的で、信用情報システムを整備し、さまざまの信用データベース化が計画されたというのですが、その実、中国共産党政治局の「中央全面深化改革委員会」がこれを中央集権的に指導するという「集中化システム」を前提に、「政務」、「ビジネス」、「社会」、「司法」の四分野での信用システム構築をめざしました。中国国内の個人と企業を信用評価システムの対象として、それらを厳しい監視下に置こうとしているのです。その結果、大量の情報データが政府に蓄積され、マシンラーニングを通じたアルゴリズムの作成に大いに役立てられようとしています。
AIで出遅れたトランプ政権
中国はAI開発で明らかに優位な情勢にあります。なによりも、個人のプライバシーを無視した情報収集や情報処理が可能だからです。マシンラーニングやディープラーニングと呼ばれる、より実践的なアルゴリズムの作成には、より大量のデータの読み込みが不可欠ですから、中央集権的にデータを集中的に入手できる中国の「集中化システム」はAI開発にきわめて親和的なのです。
これに対して、米国のトランプ政権は約一年を無駄にしてしまいました。その結果、米国政府内には、AI開発における中国の進歩に対する警戒感が猛烈に高まっています。その証拠こそ「米中貿易摩擦」なのです。
よく知られているのは、2017年3月、スティーブン・ムニューシン財務長官が、AIのために人間が仕事を失うというアイデアは「われわれのレーダー・スクリーンにはない」とのべたことです。AIが脅威となるのは「50年から100年以上先」との認識を示しました。これほどまでにAIを軽視していたわけです。
その後、ジェームズ・マティス国防長官は、AIが意図しない結果を成し遂げるかもしれず人間の思考過程や人間の価値観をも変えるかもしれないとして、米国政府がAI問題に積極的に取り組むよう主張しているヘンリー・キッシンジャーの主張を知り、トランプ大統領にメモを提出しました。これが契機となって、マイケル・クラシオス大統領技術顧問がAIを主題とするサミットを組織するまでになるのです。それが2018年5月10日に開催された「アメリカ産業のためのAIに関するホワイトハウス・サミット」でした。ここで、国家科学技術会議のもとに人工知能特別委員会の設立が決まり、ようやくトランプ政権もAI戦略に本格的に取り組むようになります。
本当はAIもまた、米国の有名な研究機関、国防高等研究計画局(Defense Advanced Research Projects Agency, DARPA)がその開発に先鞭をつけ、世界をリードしてきました。その意味では、長く米国がAI開発で世界を引っ張ってきたのですが、トランプ政権の無関心で中国にAI開発でのトップリーダーの座を奪われかねない状況になっています。わずか1年ほどの軽視であっても、最先端技術開発にあたえた影響は甚大でした。
中国による「監視システムの輸出」
中国の覇権奪取に向けた国家戦略は包括的で中長期的視野をもっています。ゆえに、したたかで、その戦略の実効性も高いと指摘せざるをえません。
中国は、米国の「民主主義の輸出」に対して、「監視システムの輸出」に力を入れています。独裁的で非民主的な政権との協力を進めて、その政権にとって都合のいい監視体制づくりを支援することで、そうした政権の延命をはかろうとしているのです。その結果、そうした政権との癒着を前提に、それらの国々の資源を中国に輸入し、中国国内の持続的成長の基盤にしようとしています。
ここではその具体例はあえて割愛しますが、中国のこうしたサイバー空間を利用した覇権拡大の動きは米国をひどく刺激しているに違いありません。
サイバー空間をめぐる日本の無知と無関心
すでにこのサイトで何度も指摘したように、日本政府はこうしたサイバー空間における地政学上の変化に無知すぎます。あるいは、無関心すぎます。「SIMEロック」事件が明らかにしたように、官僚による一部業界との癒着が国民全体に膨大な損失をもたらしたにもかかわらず、その事実さえ国民の多くは知りません。そのために、この事件を猛省する機会さえありません。その結果、eSIMEという技術革新についても、総務省は再びプロバイダー側にたった行政を一方的に推進しつつあります。無知で無関心な国民が多すぎるために、再びガラパゴス化の危機にいまの日本はあります。
こんな国ですから、世界の最先端技術の動向についてよく学び、よく理解している者はほとんどいないようにみえます。その結果、米国や中国、欧州諸国に比べて、日本は10年以上も遅れていると言わざるをえません。
最先端技術に敏感であった坂本龍馬を見習って、「21世紀龍馬」たらんとする者はもっともっと最先端技術について勉強すべきです。龍馬は当時の最先端技術と言えるピストルを保持し、寺田屋事件では実際に使用したことが知られています。高知県立坂本龍馬記念館のHPによれば、スミス&ウェッソンⅡ型アーミー 32口径回転弾倉付き六連発を高杉晋作が上海で購入し、慶応2年1月、下関から薩長同盟締結に向かう龍馬に贈ったとされています。龍馬は寺田屋事件の際このピストルで応戦するが、手に刀傷を受けピストルも紛失しました。このピストルは「1861年に米国で開発されたS&Wシリーズの第2号、通称アーミーモデル」で、開発間もない拳銃が龍馬の手に渡っていたことになります。龍馬は技術革新の重要性をよく理解し、そうした新技術を利用することになんの躊躇もなかったのです。龍馬はその後、スミス&ウェッソンⅠ型 22口径を入手し、寺田屋事件で受けた刀傷の保養のために鹿児島に出かけた際、携行しました。「鳥を撃って面白かった」というのですが、このピストルは近江屋で暗殺されたときには使われることはありませんでした。それだけ急に襲われたのでしょう。
学生に勧めているのは、「3カ月に一度、特集が組まれるThe Economistのテクノロジー特集を必ず読め」ということです。こうした努力からはじめてほしいと思います。それが技術報道に弱い、日本のマスメディアに頼らずに世界の潮流に近づく有効な方法の一つであると思います。ついでに言えば、2017年末に翻訳が刊行されなくなってしまった雑誌Wiredはサイバー空間理解のために不可欠な優れた情報源です。
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