Dishonest Abeのひどさと日本の教育のひどさ
Dishonest Abeのひどさと日本の教育のひどさ
塩原 俊彦
予想通り、Dishonest Abeは “dishonest”ぶりをいかんなく発揮している。こんな人物はクズであり、政治家としてというより人間として唾棄すべき対象であると指摘せざるをえない。
こうした“dishonest”な輩は官僚にも実に多いことがわかった。この点については、来月刊行される『潮』のなかで論じているので、そちらを参考にされたい。ここでは、こうしたクズが政治家や官僚ばかりでなく、多くの高校生にまで広がっているという深刻な事態について論じたい。
日本の高校生の「自己肯定感」の低さ
2018年3月、国立青少年教育振興機構は「高校生の心と体の健康に関する意識調査報告書:日本・米国・中国・韓国の比較」という興味深いデータを公表した。2017年に日本1706人、米国1519人、中国3240人、韓国2015人の有効回答を得てまとめた資料である。これをみると、日本の高校生のクズぶりがよくわかる。決定的なのは「自己肯定感」の低さだ。
「私は価値のある人間だと思う」という設問に対して、「そうだ」、「まあそうだ」、「あまりそうではない」、「そうではない」の4段階で回答してもらうと、日本の高校生の44.9%が「そうだ」か「まあそうだ」とこたえたのに対して、米国は83.8%、中国は80.2%、韓国は83.7%であった。「私はいまの自分に満足している」とこたえた者も日本が41.5%ともっとも低く、米国は75.6%、中国は62.2%、韓国は70.4%であった。
ほかにもさまざまな興味深い調査結果があるが、ここでは上記の自己肯定感についてだけ考えてみたい。おそらく日本の高校生は周囲の目を気にしすぎるあまり、自分自身に自信をもてていないのではないか。その結果として、「長いものにまかれる」ことが日常的となり、「出る杭」になるのを極端に恐れるようになる。「いじめ」を恐れて、大勢に与するのである。学校でも家庭でも学力偏重の状況が改善されず、損得ずくでしか自己の行動を律することができない者が圧倒的に多くなっているのではないか。
「他者指向」の強まり
人間としての倫理観を大切にして、「悪」は「悪」と断罪する勇気をもつには、なによりもまず自分自身に自信をもたなければならない。右顧左眄しているようでは、大勢に従うしかなくなってしまうのだ。この現象を別言すると、「他者指向」が強まっているということになる。デイヴィッド・リースマン著『孤独な群集』に出てくる用語である。
かれは米国を考察対象としながら、人口成長における三つの段階において、それぞれに異なった社会的性格を形成することになったと主張する。まだ人口成長期にない高度成長の潜在した社会では、その成員は伝統にしたがうという社会的性格、つまり、「伝統指向」を有する。人口成長の途上にある社会では、その成員は幼児期に内化された、伝統や他人に動かされない「内的指向」をもつ。人口減退期の社会では、外部の他者の期待と好みに敏感であるような傾向をもった「他者指向」が強まる。これが米国の人口を前提に描いたリースマンの社会的性格の三タイプである。
この社会的性格の三タイプは米国固有の現象ではない。(産業)資本主義が第一次・第二次産業から第三次産業へ、あるいは、財の生産から情報の生産へシフトしはじめた時期にどこでも生じる現象と考えることができる。これが意味しているのは、情報を基軸として発展する情報化という企てがグローバリゼーションを通じて、伝統指向と内部指向を一掃し、グローバルな他人指向をもたらしているということだ。それは、コンピューターにのる情報だけに価値を見出し、同じコードでコミュニケーションをとるという方法で他者への依存を強めることになる。他者指向を強めた人々は、マスメディアを通じて流される情報に容易に操作されてしまう。これは、他者の審美眼にフリーライドする「機会主義的企て」と同じと言ってもいい。「他者指向=機会主義的企て」なのである。
この傾向は日本の高校生ように自らに自信をもてない、すなわち自己肯定感の乏しい人間はますます「他者指向」を強めてしまうのだ。しかも、その「他者」の多くがDsihonest Abe、佐川宣寿、柳瀬唯夫のような損得のためには倫理観を捨て去っても当然という人々で占められているとすれば、もう日本はクズばかりが優勢な国なってしまう。
どうすればいいのか
テレビをつけると、「日本礼賛ブーム」といえるようなバカげた状況に気づく。問題は、日本がかかえている多くの問題についてもしっかりと見つめて、それを乗り越える努力をするか、しないか、にかかっている。
自己肯定感についていえば、もちろん、それは教育に大いにかかわっている。ただし、自己肯定感を育むような教育をするというのは教育者の傲慢でしかない。わたしの旧友であり、大変にお世話になっている出口治明はその著書『本物の思考力』のなかで、つぎのように指摘している。
「下の人間が育つかどうかは、結局のところ当人の器の問題です。人間が成長するというのは、当の本人に資質や適性があって、あとはそれを開花させることができたか、できなかったか――。そういうことだと考えています。もちろん、本人の頑張りは絶対に必要です。しかし、周囲がどんなに厳しく鍛えたところで、成長するかどうかは資質や適性次第。ありていにいえば、人が育った、というのは、本人に伸びるポテンシャルがあったから、伸びただけなのです。」
その意味で、資質や適性をどう見極めるかがきわめて重要な教育者の仕事となる。こうした視点から、教育そのものを抜本的に改革することがなによりも大切だろう。そうしなければ、Dishonest Abeと同じように、損得だけで生きるような輩が跋扈することになってしまう。
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