熊谷達也著『むけいびと 芦東山』(潮出版社)を読んで

長年、お世話になっている潮出版社の編集者、吉田孝さんからいただいた、熊谷達也著『むけいびと 芦東山』(潮出版社)を本日、読了した。久しぶりにすがすがしい読後感を得ることができた。

なぜこの本に深い興味をもったかというと、拙著『復讐としてのウクライナ戦争』において、刑罰の問題について考えたからである。キリスト教神学によって形式化された刑罰の体系がどうにも間違っているとの批判を含む考察をしたつもりである。

その過程で強く感じたのは、キリスト教神学とは異なる原理で成り立つ東洋的な刑罰のあり方について、自分がまったく知らないという絶望である。さりとて、いまさらながら、この問題について勉強するだけの時間も能力もない。

そんな状況下で、この本に出合ったことで、中国を中心とする東アジアにおいて、刑罰がどのように位置づけられてきたかについて知るきっかけを与えられたように思われる。もう残された時間はないが、芦東山なる儒学者の考察を補助線としながら、キリスト教神学とは異なる視角から、刑罰について考えてみたいと思っている。

 

ここからは、いつもの通り、メモ書きとして、この本のなかでラインマーカーを引いた部分を抜き書きしておくことにする。

  1. 98

*死に対する仏教と儒教の教えをめぐって

「白栄の問いに対する答えは、確かに書物のなかに書かれている。たとえば、死とはなにかという問いへの答えは、仏教では輪廻転生、儒教では気の集散である。だがそれをそのまま口にしたのでは、書物で得た知識を披露しただけになる。」

 

  1. 100

「死については、どう考えても儒の教え、朱熹の教えに、つまり朱子学に軍配が上がるように思えてならない。

幸七郎の最初の師である定山禅師の曹洞宗に限らず仏教においては、死者の霊魂はその人の生前の所業の善し悪し、すなわち因果応報によって、生まれ変わる先が決まる。その生まれ変わる先が、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の、いわゆる六道、あるいは六界と呼ばれる世界である。だが、最も上位の天道の世界に生まれ変わったとしても、人は煩悩から逃れることはできない。つまり、再び生・老・病・死の苦しみが始まる。

  1. 101

生まれ変わるということは苦しみがぐるぐる回り続けることであり、これが「輪廻転生」である。しかし、永遠に輪廻転生していたのでは救いがない。そこで、その束縛からなんとか解き放たれ、苦しみの世界から脱したいと願うことになる。解き、脱す。つまり「解脱」である。解脱するとは、悟りを得て仏に成ること。すなわち成仏である。それによって、人間はついに苦しみから逃れられる。その成功者が、たとえばお釈迦様なのである。つまり、お釈迦様でも悟りを得る前は輪廻転生をして苦しみ続けていたことになる。

 一方の儒教、特に朱子学では、万物はすべて「気」の連なりだとしている。人間も例外ではない。最も上質な「気」が集まることによって生まれるのが人間なのである。気が集まるということは、散ずることもある。人の死は、集まっていた気が尽き、散ずることによって訪れる。散じた気は、いずれはまわりの気に溶け込み、紛れていく。だが、まわりの気と完全に溶け合って区別がつかなくなるまではしばらく時を要する。それまではその気が周辺を漂っている。その際、同質の気を持っている子孫が心を込めて祈れば、まわりに漂う気と感応することも可能である。感じて、格る。それがすなわち「感格」である。だから儒教では「祖先祭祀」をことのほか重要視するのだ。しかし、散じてしまった気が再び集まることは決してない。それが人の死というものである。

 だが、仏教では人が死ぬと鬼すなわち霊となり、輪廻転生によってふたたび人になると言っている。それが正しいのならば、この天地において常に一定の数の人間があの世とこの世

 

  1. 102

を行き来しているにすぎないことになり、新しいものはなにも生まれないという話になる。そんな馬鹿な道理はあるものかと、朱熹と門人たちとの問答を記した『朱子語類』には書かれているのだが、この理屈のほうが仏教の説く輪廻転生よりも理に適っているように、どうしても幸七郎には思えるのだった。」

 

  1. 198

「はい。さきほど申しました通り、崎門の闇斎学と古義堂の仁斎学は水と油のようなもので、混じりあうことはできませぬ。なんとなれば、伊藤仁斎先生の古義学は『論語』と『孟子』に立ち戻ることを本義としておりますが、別の見方をすれば、それ以後のものをすべて否定しるということにございます。それ以後のものというのは、紛う方なく、朱熹を祖とする朱子学のことにございます。朱子学の根本は、いわゆる〈理気二言論〉にございます。この世のものはすべて〈気〉の集散によってもたらされている。あらゆるも

  1. 199

のは〈気〉でできている。天下は、たとえ目に見えずとも〈気〉で満たされている。したがって、仏教でいうところの〈空〉や〈虚〉はあり得ない。『易経』に書かれている形而下のことにございます。ではその〈気〉の動きを司る則は何か、それぞれに意味を与えているものは何か。それが〈理〉であると朱熹は言っています。正確には――天下のものごとについて言えば、必ずそれぞれ〈然る所以の故〉と〈当に然るべき所の則〉とがある。これがいわゆる〈理〉である――と述べています。こちらは『易経』で言うところの形而上のことにございます。この大原則から逸脱しては朱子学とはいえなくなります。ところが――」

「ところが、仁斎学では〈理〉そのものは認めるものの、人の心に天道の〈理〉を当てはめるのは間違いだとしています。どういうことかと申しますと、朱子学では、人の心も天下の原理と同様に〈理〉と〈気〉によって成り立っていると考えます。具体的には、人の心は〈理〉である〈性〉と〈気〉である「情」に分けることができる。それがすなわち

  1. 200

『性即理』にほかなりませぬ。そしてまた〈理〉である〈性〉は、本来絶対的な善でなければなりませぬ。孟子が言っているところの性善説と言い換えてもかまわないでしょう。ところが実際には、この世には善人ばかりがいるわけではない。それはなぜか。〈気〉の動きの影響を受けて本来は善であるべき〈性〉が歪められるからにございます。その歪められた〈性〉の部分を朱子学では〈気質の性〉と呼んでいます。すなわち〈性〉にも二種類ある。理に則ったまったくの善である〈性〉こそが〈本然の性〉にございます。本来人は〈本然の性〉のみを持って生まれてきます。ところがこの世で生きていく中で、どうしても〈気質の性〉が立ち現れ、我々の心に歪みをもたらしてしまう。その歪みを取り除くことが、すなわち聖人に至る道になるわけです。そのためにこそ『論語』を始めとしたさまざまな教えが儒教にはあるわけでございます。ところが、仁斎学においては、人の心は〈気質の性〉のみにてできている、としています。つまり仁斎学では〈性〉とは一律に善なのではなく、最初から〈気〉の影響を受けた生まれつきのものだと言っているのでございます。すると、自力ではいくら頑張っても聖人にはなり得ない、という話になってきます。聖人足り得る者は、生まれつき聖人として生まれてくる、ということにございます。伊藤仁斎は、十人が十人わかり、行えるのが道であると言っていますが、すべての者が一律に目指すべきものを道とする朱子学の教えとは違っております。さようにそもそもの出発点の違う朱子学、ひいては崎門学と古義学にございます。それではいくら討論を重ねよ

  1. 201

うと、相容れるはずがございませぬ。」

  1. 230

「いかなる時でも本心だけを口にすれば、世の中のすべてはすっきりすると孝七郎は思うのだが、そうはいかぬのがこの世の常であるらしい。それを思えば、本音のみで議論ができていた京都遊学時代が懐かしい。

 そうなのである。だから学問の世界は安心できるのだ。正しいのか正しくないのか。真か偽か。物事の白黒をはっきりさせるのが学問であり、真であると明らかになったものに対しては誰も異論を挟めない。」

  1. 400

「刑律とは、本来は良民がその生を全うできるようにするために整えられたもののはずだった。それがいつしか、あの晒場で見た鋸挽き穴晒しの刑のように、単なる見せしめのものとなってしまった。人々を恐れ慄かせることで世の秩序を保とうとしている。罰することが目的の刑となっている。しかし、罪人は最初から罪人であったわけではない。曇りを帯びた気質の性によって本然の性が見えなくなり、それで犯してしまうものが罪である。その曇りを少しでも取り除き、本然の性を取り戻させるのが、刑のあるべき姿が。それをさらに突き詰めれば、堯や舜のような聖人によって治められる世では、民の心は健やかに育ち、本然の性が見失われることはないはずで、それこそがすべての君主が目指すべき治世にほかならぬ……。」

 

(Visited 30 times, 1 visits today)

コメントは受け付けていません。

サブコンテンツ

塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

このページの先頭へ