プーチンとパトルシェフの関係について:FSBをめぐる深い闇
「似非専門家」がマスメディアでつまらぬ解説を展開するのをみていると、こんな一知半解なたわごとで国民が惑わされているかと思うと、心から情けなくなる。そんな例がエフゲニー・プリゴジンをめぐる報道であった。連邦保安局(FSB)の枠内で急成長したプリゴジンを理解するためには、ロシア国内を事実上、支配下に置いているともいえるFSB全体に対する深い洞察が必要になる。この点については、すでにこのサイトで解説した(「ワーグナー・グループの騒動をめぐって:FSBから考察する必要性」や「ソ連時代の「負の遺産」からウクライナ戦争を分析する:プリゴジンの「ワーグナー・グループ」の正体とは?」を参照)。
パトルシェフという最重要人物
FSBを理解するためには、ウラジーミル・プーチン大統領はもちろんだが、もう一人、最重要人物がいる。その人の名はニコライ・パトルシェフだ。「ウォール・ストリート・ジャーナル」(WSJ)は2023年12月22日、「プーチンの右腕はいかにしてプリゴジンを暗殺したか:数十年にわたりロシア指導者の盟友であったニコライ・パトルシェフが、反乱を起こした傭兵組織ワーグナーの首領の暗殺を実行に移した」という長文の記事を公開した。今回は、この記事の内容を紹介しつつ、パトルシェフおよびその家族について考察してみたい。
まず、2008年に刊行した拙著『ネオKGB帝国―ロシアの闇に迫る』において、パトルシェフについて言及した部分を紹介してみよう。
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「ロスネフチはユコス資産を買い漁って巨大化し、〇六年の石油生産量では、ロシア第二位、〇七年には一位となった(表1―2参照)。興味深いことに、このセーチンのロスプロムにおける仕事にアドバイスを与えるため、パトルシェフFSB長官(当時)の息子(次男アンドレイ)が〇六年九月、FSBからロスネフチに配置替えされた。こんな情実人事をしているにもかかわらず、プーチン大統領はパトルシェフの息子アンドレイがロスネフチに移って七カ月後、アンドレイにその仕事ぶりをたたえて「名誉勲章」をロスネフチで授与するというセレモニーまで行った。ここに、プーチンとパトルシェフとの尋常でない関係を読み取ることができるだろう。つまり、プーチン、セーチン、パトルシェフが不可思議なほど、緊密な関係にあることを印象づけている。プーチンは広義の「軍人」のなかでも自分の古巣であるFSBを重用することで、自らの権力基盤としたが、そのために、とくにパトルシェフFSB長官ときわめて密接な関係を構築したのだ。なお、〇八年五月の人事異動でパトルシェフは安全保障会議書記に転出することになったが、このポストは鵺的存在で、FSBよりも強大な影響力を発揮しえるが、逆に下部機関が小規模なため、実権が脆弱という特徴がある。どちらに転ぶかは、メドヴェージェフ大統領、プーチン首相、それに本人の出方にかかっている。
パトルシェフとプーチンの関係
パトルシェフとプーチンの関係について考えるには、英国で暗殺された元KGB職員、リトヴィネンコについて語るところからはじめなければならない。上司に政商ベレゾフスキー暗殺を命じられ、それを断って公表したリトヴィネンコは〇六年十一月、ポロニウムという放射性物質を使って暗殺された。当初はタリウムとみられていた毒物が放射性同位元素ポロニウム210という物質であることがわかって、ロシア政府の関与が強く疑われるに至った。ポロニウム生産の九七%はロシアで行われ、工業使用目的で米国にも輸出されていたからだ。ポロニウムは放射性物質だから、痕跡を残す。その調査の結果、英国は元KGB職員で実業家のルゴボイを犯人と特定した。ルゴボイの引渡しを求める英国に対して、ロシアは憲法六一条の「ロシア市民は外国に引き渡されることはない」という規定を盾に応じていない。その一方で、英国はロシアが引き渡しを求めている政商ベレゾフスキーらの引き渡しに応じていない。そのため、外交官四人の相互追放、ビザ照会業務の一時停止などの措置が取られ、両国関係にきしみが生じている。
リトヴィネンコ暗殺は、FSBを裏切った者に対しては、死さえ待ち構えている、とする掟を見せつけている。とくに、彼は命令を守らなかっただけでなく、FSBに対する「裏切り」も行った、という見方ができる点が重要だ。彼は、一九九九年九月二十二日にモスクワ南方のリャザン市で起きたアパート爆破未遂事件がFSBの「演習」だったとされた事件を、FSBのでっち上げと糾弾してきたのである。そのころ相次いでいた爆破事件そのものがFSBの配下によるもので、これをチェチェンへの攻勢強化さらにプーチン人気に結びつけようとした、とリトヴィネンコは主張した。
気になるのは、〇六年七月二十七日付連邦法で、連邦保安局法の第九条一項を改正し、大統領の決定に基づいてFSBの特殊部隊を、ロシア連邦の安全保障上の脅威を取り除くために海外に派遣できるようになったことだ。国外にいるテロリスト集団の暗殺を目的として特殊部隊を国外に派遣できるようになったことになる。まさか、プーチン大統領がこの法律を使ってリトヴィネンコ暗殺を命じたとは考えにくいが、いまのロシアにはこうした恐ろしい規定が法律として存在する。
リャザンでの「演習」の虚実
実は、このリャザン市で起きた事件がパトルシェフとプーチンの関係に大いにかかわっている。だからこそ、この事件のあらましについては、すでに拙著『ロシア経済の真実』のなかで、筆者は日本のだれよりも早くきちんと紹介している。
そこで、引用したのはリトヴィネンコとフェリシチンスキー(一九七八年に米国に移住したロシアの歴史学者)共著のロシア語と英語の本だが、〇七年になって、これらの本をもとに改めて出版された英語の本BLOWING up RUSSIA The Secret Plot to Bring Back KGB Terrorという本の日本語訳が出版された。リトヴィネンコ暗殺に興味をもった中澤孝之監訳の本である。ここでは、中澤の姿勢に敬意を表して、この本から、リャザン事件を改めて紹介してみたい。」
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もう一つ、別の箇所を紹介しておこう。
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不可思議な血縁関係とネポティズム
「選ばれし民」には、不可思議な血縁関係とネポティズム(親族重用主義)が目立つ。たとえば、シロヴィキであるセーチンの娘は〇五年夏、ウスチノフ検事総長(当時、〇六年六月から〇八年五月まで法務相、その後、南部連邦管区大統領全権代表)の息子ドミトリー(FSB高等学院卒、大統領府職員)との間でできた子供を産んだ。そう、セーチンの娘とウスチノフの息子は〇三年十一月に結婚していたのである。一種の選民思想をもつシロヴィキのなかには、反シオニズムに傾く者もいる。セーチンとメドヴェージェフが敵対関係にある背後には、メドヴェージェフがユダヤ系であるとの理由から、セーチンがメドヴェージェフを嫌悪しているという理由があるのかもしれない。
ユダヤ系のフラトコフ前首相は、KGBに関連する仕事をしていた。したがって、彼が首相更迭後、対外諜報局長官に任命されたのは当然といえなくもない。こうした仕事に慣れているからだ。彼にはふたりの息子がいる。長男ピョートルはモスクワ国際関係大学を卒業後、極東海洋船舶のモスクワ事務所で働いた後、米国でヴニェシエコノム銀行の副代表として働き、帰国後、対外経済活動・開発銀行の設立や活動を主導する立場に就いた。同行は特別法に基づいて、中央銀行ではなく、首相の管轄下に置かれるため、父と子がいったんは同じ仕事にかかわることになった。
弟パーヴェルはFSBアカデミーで学んだ。卒業後、外務省に入り、主要国G8および欧州連合(EU)担当の三党書記官になった。パトルシェフの息子の同窓という。そのパトルシェフには、兄ドミトリーと弟アンドレイがおり、前者は国営のヴニェシトルグ銀行副社長で、後者はが、セーチン大統領府副長官が兼務する国営石油会社ロスネフチ会長の仕事のために、セーチンの顧問として働いている。パトルシェフの甥、アレクセイはサンクトペテルブルクに二つの会社を設立し、うち一社が五百万㌦を投資するプロジェクトにパートナーとして参加している会社、クヴォルム・インベストは〇六年三月、ルビャンカにあるFSBビルに「ルビャンスキー」というレストランを開設した。
新しいFSB長官に任命されたボルトニコフの息子デニスは政府系のヴニェシトルグ銀行(VTB)で急速な昇進を遂げている。〇七年十一月に、VTB北西社の副社長になった。まだ三十三歳だ。同行の監査会議のなかには、ステパシン会見検査院長官(元FSB長官・首相)の妻(VTB副社長)が入っている。ステパシンはメドヴェージェフの「選挙参謀本部」と呼ばれていたロシア法律家協会を主導する立場にもある。
まだまだある。KGB出身でプーチンと東独で勤務していたチェメゾフは、武器輸出の独占体、ロシア国防輸出の総裁を経て国家コーポレーション・ロステクノロジー社長に就任した人物だが、その息子スタニスラフを〇七年にAvtoVAZエネルゴという自動車メーカーであるAvtoVAZの子会社の取締役にした。AvtoVAZエネルゴは〇六年九月に設立されたばかりの会社で、五一%はAvtoVAZ、四九%はイテラという会社が保有している。AvtoVAZのエネルギー資産を管理するための会社だ。ロシア国防輸出がAvtoVAZを支配するようになって以降、ちゃっかり息子を子会社の要職に押し込んだことになる。
プーチン政権時代に国防相、第一副首相、メドヴェージェフ大統領になって副首相に任命されたセルゲイ・イワノフには、二人の息子がいる。長男アレクサンドルはいずれも政府家のヴニェシエコノム銀行、ついでヴニェシトルグ銀行に勤務している。彼は「どら息子」らしく、〇五年五月、スポーツカータイプのフォルクスワーゲンを運転中に、六十八歳の老女をひき殺すという事故を起こした。この事故の結果、当時、予定されていた日本の防衛庁長官(当時)とのモスクワでの会合が急遽、キャンセルになったという。それほどセルゲイ・イワノフ自身も動揺していたと思われる。息子に罪があれば、五年の自由剥奪という刑に服さなければならなかったが、親の威光からか、罪は免れた。モスクワ国際関係大学卒の弟セルゲイはガスプロム銀行副社長の要職にある。
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なお、文中に紹介されているドミトリーは現在、ロシア農業相を務めている。
実は、パトルシェフは最初からプーチンとの太いパイプを築いたわけではない。「トゥリ・キタ」事件という大スキャンダルおよびそのもみ消しという経緯を経て、少しずつプーチンとパトルシェフとの関係が「悪」で結びつくようになるのだ(詳しくは拙著『ネオKGB帝国』を読んでほしい。この本を読まなければ、プーチンの権力基盤を理解することは100%できないだろう)。
WSJに書かれている内容
WSJは、2023年8月に飛行機事故で死亡したプリゴジンとパトルシェフとの関係について、西側情報機関、元米ロの安全保障・情報当局者、元クレムリン高官らにインタビューし、プリゴジン殺害やプーチンの権威を再強化する上でパトルシェフが果たした役割について、新たな詳細を明らかにしたと伝えている。
WSJによれば、パトルシェフは、モスクワがウクライナのワーグナー・グループに依存することで、「プリゴジンが政治的・軍事的影響力をもちすぎ、クレムリンをますます脅かしている」と、長い間プーチンに警告していた。
ウクライナ戦争勃発後、精鋭部隊を失い、一敗地に塗れたプーチンは、プリゴジンと彼のワーグナーの戦士たちに、ロシアの戦力を補強するよう要請した。彼らはFSBの管轄下にあったが、その彼らがウクライナ戦争に関与するようになったことで、軍内部におけるFSBとの関係に亀裂が生じることにもつながった。
WSJでは、2022年10月、パトルシェフ自身が、プリゴジンがプーチン大統領を叱るのを聞いたと記されている。このころから、ワーグナー・グループの総帥、プリゴジンは「クレムリンの権威を尊重しない危険な存在になっていた」のだ。
同年12月になると、パトルシェフの勝利が明らかになる。プリゴジンが公然と軍や物資不足を憤慨しても、プーチンは彼を無視し、電話もつながらくなった。2023年6月上旬までに、クレムリンはウクライナの戦闘力としてのワーグナー・グループを事実上解体する計画を発表し、同グループの戦闘員にロシア国防省への登録を命じた。
プリゴジンの反乱
6月23日、プリゴジンは反乱を起こす。ウクライナの戦場から2万5000人の兵士と戦車を連れ去り、ロシア軍の南部軍管区司令部を奪取するため、南部の都市ロストフ・ナ・ドヌーに向けて進軍させた。彼が「正義の行進」と呼ぶその計画は、プリゴジンが到着する前に逃げ出したワレリー・ゲラシモフ参謀総長とセルゲイ・ショイグ国防相と対決することだった。このため、プリゴジンは、戦車と兵士の別の隊列をモスクワに向かわせる。
WSJによれば、当時、プーチンはモスクワ郊外の別荘にいたため、パトルシェフが後を引き継ぎ、プリゴジンを説得するために電話をかけまくったという。パトルシェフは、プリゴジンに同情的な将校に、プリゴジンと連絡を取るように頼んだ。クレムリンからプリゴジンへの5回の電話に、彼は出なかった。パトルシェフは仲介者も探し、旧ソ連諸国からなるロシア主導の軍事同盟のメンバーであるカザフスタンとベラルーシの政府にも電話をかけたと記されている。
「カザフスタンへの呼びかけは、最悪のシナリオに対する保険だった」と指摘されている。もしロシア軍が暴徒化した軍隊を抑えられなかったら、カザフスタンからの支援を求める内容だったようだが、カシム・ジョマルト・トカエフ大統領は、ロシアのウクライナ侵攻後に距離を置いていたため、「これを拒否した」とされる。
結局、よく知られているように、ベラルーシのアレクサンドル・ルカシェンコ大統領の尽力(6時間以上にわたって何度もプリゴジンに電話をかけたという)で、最終的に、ルカシェンコはパトルシェフが打ち合わせた提案をプリゴジンに伝えた。その提案は、プリゴジンが部隊を翻意させれば、彼の部下はベラルーシに亡命することを許されるというものだった。ルカシェンコ大統領は、プリゴジンと何度も会談し、プーチン大統領とも会談し、「会談は成功裏に終わった」。
ただ、6月23日深夜のテレビ出演で、プーチンはプリゴジンとワーグナー・グループ指導部を裏切り者呼ばわりし、アフリカなどの海外事業の支配権を保持することを含むオファーを受けるよう説得した。結局、24日の夕方までに、プリゴジンの反乱は終結した。
プリゴジンの殺害
WSJによれば、8月初め、パトルシェフはモスクワ中心部にあるオフィスで、プリゴジンを「処分する」作戦を進めるよう指示を出したとされる。プーチンは後にその計画を見せられたが、反対しなかったという。
数週間後、プリゴジンはアフリカ歴訪の後、安全検査官が飛行機のチェックを終える間、モスクワの空港で待機していた。この待ち時間に翼の下に小型爆弾が仕掛けられた。ワーグナー・グループの指揮官ドミトリー・ウトキン、もう一人のグループ関係者、パイロット2人、39歳の客室乗務員を含む9人がプリゴジンとともに死亡した。
軍とFSB
こうした経緯が実情に近いとすると、私が何度も主張してきたように、ワーグナー・グループおよびプリゴジンの問題は、いわばFSB内部の問題であり、FSBを事実上、管理下に置いているパトルシェフの問題でもあったのだ。だからこそ、パトルシェフ主導でプリゴジン殺害が練られたのである。
プリゴジンがモスクワに向かう途中で、ロシア軍からの賛同者が出なかったのも、プリゴジンの問題がFSB関連であることを多くの軍人が知っていたからではないか。だからこそ、彼らは静観し、クレムリン直轄ともいえるFSBとプリゴジンとの最終的な決着、着地点を見守ったのではないか。
そうした、軍とワーグナー・グループとの微妙な関係を知らずに、欧米諸国や日本の似非専門家はまったく見当はずれのコメントを寄せていた。本当に、バカそのものである。
パトルシェフの財政状況
パトルシェフの財政状況をめぐって、「ノーヴァヤガゼータ・ヨーロッパ」が2023年11月6日、「ウラジーミル・プーチンの右腕の有力者一族は、いかにして財政の公開調査を避けているのか?」という興味深い記事を公開した。
2022年、政府や企業のデータベースから6億6700万件の記録が流出した。そのなかに、パトルシェフの名前はその中に一度も出てこなかった。しかし、テレグラム・チャンネルMozhem Obyasnitはその真相を突き止め、パトルシェフが連邦税務局からエフゲニー・ルコフという偽名でリストアップされていることを発見したという。
その結果、大統領府が2018年に「ルコフ」に支払った給与は580万ルーブル(当時の換算レートで7万8300ユーロ相当)であったが、ルコフのその年の総収入は3370万ルーブル(同45万5000ユーロ相当)であった。ほかに、モスクワの不動産と交通警察に影響するデータ流出により、パトルシェフが2004年にモスクワ中心部のエリートビルに広々とした優雅で好意的なアパートを与えられていたことが明らかになった。だが、ルコフ/パトルシェフについては、今回の税金リークでは他に言及されていないという。
「公式報告によると、ドミトリー・パトルシェフ大臣はロシア政府で最も裕福な人物の一人である」と記事は書いている。2021年、彼の収入は1億2100万ルーブルに達した。その3年前の2018年には1億8400万ルーブルに達している。流出した納税記録は、この数字を分解し、ドミトリーが非国営年金基金ガスフォンドの年金貯蓄から3300万ルーブル、保険会社RSHB保険から950万ルーブル、そして当時取締役会長を務めていたロスセルホズバンク(ロシア農業銀行)から4100万ルーブルを得ていたことを明らかにした。
末っ子でロスネフチ顧問のアンドレイ・パトルシェフは現在、モスクワのエリートビルに住んでいることを突き止めた。大統領府によると、この家の1平方メートルの価値は50万ルーブル(5000ユーロ)であり、アンドレイのアパートは最大で1億2850万ルーブル(130万ユーロ)の価値があることになるという。
いずれにしても、FSBこそプーチンの権力基盤であり、そのFSBをがっちりとパトルシェフが支えている構造がWSJや「ノーヴァヤガゼータ・ヨーロッパ」の記事で少しだけ理解できたのではないか。
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