「レント」概念とルソーの「一般意志」

もうじき、論座に「「レント」からみたアベノミクス批判:分配議論には「レント課税」が不可欠」(仮題)という論考が掲載される。この考察のなかでは、「レント」という概念がルソーのいう「一般意志」と似ているという話を紙幅の関係から割愛しておいた。そこで、ここで改めて「レント」と「一般意志」について論じてみたい。

 

標準を上回るという意味での「レント」

「レント」には、さまざまな意味がある。そのなかで、経済学が注目するのは、「レントシーキング」(rent-seeking)というときのレントである。レントシーキングはレント獲得のための資源支出が否定的な社会的影響をおよぼす場合に使用され、肯定的な影響をおよぼす場合には、プロフィットシーキングという言葉が用いられる。

レントシーキングは通常、国家の調整・干渉によって生み出されるレントを求めて行われ、その追加的レントは消費者余剰の損失として現れ、この損失はレントシーカーからレント供給者への単なる移転ではなく社会的費用とみなしうる。このとき、この費用の一部はロビイ活動や行列などの形態をとったレントシーキングとして合法的に出現するが、多くは発展途上国では腐敗の形態をとる。この活動に伴う社会的費用ないし社会的損失が大きいために、功利主義からみると経済腐敗と映るわけである。

このように、レントは「超過所得」ないし「超過利潤」といった意味で使われる。その際、「標準所得」ないし「標準利潤」のような概念が前提とされている。こうした「標準」を上回って得られる「棚ぼた所得」のようなものがレントということになる。

 

「公民」を前提とする「一般意志」

他方、ルソーに目を転じると、彼は、一人ひとり個別の要望や欲求を「特殊意志」とみなし、この総和を「全体意志」と考えた。これに対して、ある国において、すべての人が同意し、それを通じてすべての人の利益が実現するという意味で、一般的であるような意志を「一般意志」と名づけた。いわば、個人の利益や会社の利益を追い求める「特殊意志」に対して、「公民」として、社会全体の利益を考えるのが「一般意志」ということになる。この一般意志には、個人ではなく「標準的な公民」という立場が強く意識されていることになる。

 

「公民」は「シビル・ロー」に依拠

考えてみると、この「公民」という発想は大陸法の「シビル・ロー」の考え方に強く依拠している。このシビル・ローは、〈人の上に法をおく〉という、ジャン=ジャック・ルソー的立場に基づいている。そこでは、一人ひとりの要望や欲求である「特殊意志」ではない、全国民の意志にかなった、全国民の利益を追求する「一般意志」を具体化する、集合的な単一の人格としての「公民」が構成員として想定され、それが自発的に参加する結社(アソシエーション)としての政治体が主権国家であり、その主権に具体的に参画するのが市民とされている。社会契約は「公民が公民となる」ための水平的な社会契約であり、市民は公民となることが前提とされている。ゆえに、フランスやドイツといった大陸諸国では、公民という立場に立つところに正義を考える必要が生まれる。この公民のもとに制定された法はもはや私的利害を優先する私人に侵されることはない。そこでは、私人よりも法が優先される。まさに、〈人の上に法をおく〉のだ。

これに対して、個人を重視するのが「コモン・ロー」たる英米法体系だ。コモン・ローに立脚する英米法体系では、トマス・ホッブズ的立場が優先されてきた。すなわち、一人の人間ないし少数の人間だけが自分の属する国家だけを前提に、その国家の主権保持を錦の御旗として、自国内での民主主義の手続きを経て、自国内の一部の人間集団の利害を代表する政策があたかも国民全体の総意であるかのようにふるまう結果、国民全体の代表者としてふるまう人物が正義からかけ離れた行為を行いうる事態が起きるのだ。ここでは、法律があっても、法律を無視して個人が勝手な行動をとりうる。〈法の上に人をおく〉という事態が起きる。

ここでの「社会契約」は主権者たる国家に統治権を譲渡する、垂直的な「統治契約」となっている。いわば、市民という名で個々人の独善的な利益だけを優先し、それを民主主義という手続きを盾にして国民の総意とするのである。ゆえに、民主主義を隠れ蓑にして、一人の人間が国民の総意のもとに法律を無視することも可能になる。まさに、〈法の上に人をおく〉のである。

 

英米法VS大陸法

この二つの法体系の対立はいま現在もつづいている。英米法体系においては、個人が重視され、レントやレントシーキングが当然視されている。そこには、「標準」を想定して、棚ぼた利益を規制したり、個人の自由を制限したりする発想そのものが希薄だ。

これに対して、大陸法体では、公民が重視され、社会全体を見回した標準的な公民の立場に立つことが求められている。同時に、「標準所得」を上回る所得であるレントに課税するのは当然とみなされる。

残念ながら、世界の覇権を握ったきたのが英国や米国であった結果、依然として英米法体系のもつ価値観が世界で優勢となっている。それが、極端なレントを放置し、猛烈な所得格差を生み出す一因となっていることは間違いあるまい。

 

どうすればいいのか。

それでは、どうすればいいのか。答えは簡単だ。公民やレント課税を是とするような価値観を世界に広げる努力をすればいいのだ。もちろん、これをいざ実践しようとしても、そう簡単ではない。ただ、問題の所在がわかっている以上、もっと明確に「標準」という、分を知ることの重要性を教育することが何も求められている。

残念ながら、ここで説明したような基本を理解している人は少ない。教育が悪いせいなのだが、ともかくも一歩ずつ、誤りを糺していかなければならないように思われる。

 

「普遍的意志」という問題

ただし、一般意志は決して時間や空間を超えて適用可能な「普遍的意志」ではないことに注意しなければならない。特殊意志が同じ判断を、多数決を通じて決定すれば、それは意全体意志として有効性をもつというのが民主主義の原理だ。だが、その意志は一般意志と必ずしも一致しないかもしれない。多数決で決めたことでも、一般意志からみると認められないこともありうる。しかし、そうなると民主主義の原理が毀損されてしまう。

それだけではない。一般意志の一般は特殊意志の特殊の対義語にすぎない。それは、時間や空間を超えて通用する普遍とは違う。普遍の対義語は単独だ。つまり、一般意志なるものが公民的立場から公民全体の利益にかなう決定をしても、それはその場所、その時代の判断にすぎず、場所や時間が異なれば、違う判断たりうる。

その意味で、一般意志に基づく「標準化」というやり方が普遍的であるとは言えない。ゆえに、このやり方を教育するだけでは問題解決には至らない。

おそらく、これが第一歩にすぎない。本当に大切なのは、「普遍的意志」なるものを世界全体でどう構築するか、そして、それをどう実践するかについて、よく考察することなのだ。もちろん、その解答はまだ出ていないのかもしれない。それでも、論理的な視角はここで紹介したような方向にあるはずだ。

ゆえに、いまもなお、この問題と格闘しているのである。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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