平野啓一郎著『本心』を読んで

平野啓一郎はいま現在活躍している日本人作家のなかで、わたしが信頼して読めるほとんど唯一の作家である。わたしは、村上春樹を好まないから、まあ、小説が出るたびに注目している小説家と言えば、平野くらいしか思いつかない。その彼が書いた最新作が『本心』である。

 

豊富な論点

これは、2040年という近未来を対象とした小説だ。その意味で、母親のVF(ヴァーチャル・フィギュア)をつくるという話を軸に展開する話は、将来から現在をみる視点を大切にしようと考えてわたしにとって、とても参考になった。

そこでは、当然、機械学習によるAIの性能向上といった問題が論じられている。AIに基づくロボットと人間のかかわりといった問題も生じる。

他方で、母が望んだという、「自由死」という、死を自ら選択する権利をめぐる問題も語られる。たぶん、これから数十年にわたってどこの国でも議論されることになるであろう問題が提起されていることになる。あるいは、とてつもない格差拡大が広がり、「あちら側」と「こちら側」の断絶が決定的になってしまった世界のことも取り上げられている。もちろん、2040年ころの日本はまったく荒廃しており、それは、まさにいま現在から積もり積もった結果を反映しているのであろう。

いずれにしても、気になる論点がたくさんある。夏休みの一冊として推薦しておきたい。

 

「死者の権利」

ここでは、気になった「死者の権利」についてだけ取り上げておきたい。『本心』の409頁にある会話の記述を紹介してみたい。パンデミックのいま、「死者の権利」が蹂躙されている現実を知っているわたしたちにとって、この文章はとても気になる。

「死の自己決定権の話をしました。この問題を、社会的弱者にのみ押し付けるのは、許されないことです。必ず悍ましい議論になります。考えるべきは、そもそも人類に、その権利を認めるかどうかです。お母さんとは、そんな深刻な話もよくしたんです。――人間は、一人では生きていけない。だけど、死は、自分一人で引き受けるしかないと思われている。僕は違うと思います。死こそ、他者と共有されるべきじゃないか。生きている人は、死にゆく人を一人で死なせてはいけない。一緒に死を分かち合うべきです。――そうして、自分が死ぬ時には、誰かに手を握ってもらい、やはり死を分かち合ってもらう。さもなくば、死はあまりにも恐怖です。」

この『本心』を読む直前に読んでいた大澤真幸と國分功一郎の対談『コロナ時代の哲学』には、つぎのような國分の発言が紹介されている(80頁)。

「「死者の権利」という考え方、この言葉は非常にインパクトがあると思います。とはいえ、我々は実際にはそのようなものを認めて社会を運営してきた。つまり、これまでに死んでいった人たちの歴史の重みが、今の生者の社会や法や倫理を支えている。たとえば、法の従うことということそのものを支えている法意識のようなもの、法に対する敬意と言ってもいいと思いますが、そうしたものは結局、これまで法が守られてきたという歴史に支えられた感覚でしかありません。身の回りを探してもその根拠はどこにもない。そしてその感覚は我々が死者の権利を認め、それに敬意を払っているからこそ生まれるものではないでしょうか。死者の権利を忘れたとき、我々はペラッペラの現在しかない生を生きることになる。」

というわけで、パンデミックのいま、死者の権利が軽視されている現状は、実は大きな問題をはらんでいることになる。そんなことを『本心』と『コロナ時代の哲学』は教えてくれる。『コロナ時代の哲学』もぜひ、夏休みの一冊に加えてほしい。

 

内省せよ

最後に、若い人に向けて一言つけ加えておきたい。『本心』では、「僕」という人物(石川朔也)の内面がよく描かれている。主人公の内省が手に取るように書かれている。逆に言えば、内省のやり方を教えてくれているように思えてくる。

若い人々に言いたいのは、内省は訓練しなければ、決して身につかないということだ。昔であれば、日記をつけることで内省力を鍛えることもできたが、日記を書くという習慣が廃れてしまったいま、若者は相当意図して内省力を身につけるように鍛えなければ、いつまでも「個人」になれないのではないかと、わたしは危惧している。

とくに、日本の場合、両親も親戚も上司も多くの周囲の人間が内省力の乏しい人ばかりだから、よほど努力しないと内省力を向上させることは難しい。その意味で、『本心』は内省力のある主人公を描き切ることに成功していると思う。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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