『透明性』と『「人間以後」の哲学』を読んで:「パラダイムシフト」の必要性

年末から正月にかけて、5冊ほどの本を読んだ。そのなかで、とくに感銘を受けた2冊について紹介したい。

最初は、マイク・デュガン著、中島さおり訳の『透明性』という未来小説である。2068年の世界を記述したものである。わたしは、平野啓一郎著『ドーン』のような未来小説を読み、思考の「体操」に利用している。未来から現在を観照することで、現在への理解を深めるのである。

 

『透明性』

ここで、「訳者あとがき」の部分にある「あらすじ」を紹介しておこう。

 「作品の時代設定となる2068年、人々は自分に関する情報全てをいくつかの端末を通して発信しており、グーグルを頂点とするデジタル企業がそれを集め管理している。健康から心理、セックスまで、秘密にできることは何もない。徹底した監視社会だが、人々はそれを不満に思ってはいない。情報を発信し、それが他人に収集されることには本人の許諾が必要だし、許諾する見返りには報酬が得られ、一種のベーシック・インカムが成立している。デジタルの独裁は、恐慌や迫害や弾圧を伴わない、欲望を満たさせるソフトなものだ。自由意志を持っていると人々に信じ込ませながら、巧みに人心を操作する。人々は端末を通じて、あらゆることに自由な意見を表明しているようでありながら、その政治的意見は常に情報操作されたものなのだ。収入と消費行動が満たされているので、不満を覚えない。例えば、大気汚染された世界に住む彼らは、家にいながらにして巧妙に作られたヴァーチャル空間で世界中を旅して満足している。

  この作品の語り手で主人公でもある女性は、そのデジタル界の担い手でありつつ、デジタルの支配に批判的な心情も持つ複雑な人物である。若くして、個人情報から理想のパートナーを弾き出す縁結びエージェント会社を起業して成功し、グーグルに請われてそのトランスヒューマニズム部門で働いた後、地球と人類を救う壮大な計画を胸に「エンドレス」というスタートアップ企業を設立した。この会社が秘密裏に進めていたのは、個人の持つ全てのデータを、鉱物からできた身体の中に移し替え、死なない人間を作る計画だった。」

この計画に成功した彼女は、一度死んでも永遠の命を与えられる人を選別できるようにする。その基準について、彼女はつぎのように語っている。

 「いいえ、基準を決めるには私の協力者の手を借りますし、私は関わりません。その後はアルゴリズムが、死んだ人間がこの世に戻ってくるに値するかどうかを、人間に影響する要素、特に人を悪い方向に動かしかねない幼児期のトラウマなどを考慮に入れて決めるのです。でも、私たちが優先的に見るのは、その人が環境保護のためにした努力です。地球のためになる生活様式を選んだか、ガスの排出を抑えたか、それを計算するのは難しくないのですよ。十人、時には百人の人間が生きられるだけのものを一人で独占している人が何人もいます。その傲慢さと面の皮の厚さは、もうすぐ正しい罰を受けるでしょう。寿命を全うして役に立たない人生を終わってもらいます。私たち、同僚と私は一つのコミュニティーを形成しており、私たちは25年前から、一種、秘密裏に、ともに隠れて暮らしていて、私たちは誰にも私たちの基準を漏らしません」

そして、どうなったかというと、つぎのような説明がある。

 「人類が新しい展望を持つのには数カ月しかかからなかった。ふつう、流行が広まるのにかかるよりも短い時間だ。競合、競争、執拗な利潤追求、熱狂的な物欲、欺瞞、傲慢、背任、汚職は、まるでひとつの目が皆を見張っているかのようにとる所として廃れた。この目は今までも常に見張っていたのだが、今回の違いは人々がそれを信じたことだ。一人一人が、自分の周囲との関係で間違いを犯さないよう気をつけた。多くが、熱心な小学生のように、本を文字通り受け取った。それは私たちが要求したことではなかった。そうではなく、アルゴリズムはもっと洗練されていて、個々の良い点、悪い点で判断するのではなく、候補者が良好な精神状態で永遠に世界の人間社会に貢献できるかという一般的な適正によって判断するのである。」

わたしは、腐敗をなくすにはどうすればいいかを長年、研究しつづけてきた。このわたしにとって、この記述は目から鱗の指摘であった。かつて世界に広がっていた奴隷制度も廃れたことを思えば、腐敗もきっと少なくなるに違いないと考えてきたが、こうした価値観の転換が一気に実現すれば、たしかに腐敗が大幅に減少するかもしれない。

ただし、この感想はあくまで研究者としての独り言にすぎない。重要なことは、デュガンが環境問題を軸に人間の選別を提案している点である。もちろん、あくまで未来小説だから、その当否は大いに議論のあるところだが、地球環境が決定的に汚染されて、もはや何もしなければ人類全滅の危機が迫っている2068年にあっては、こうした基準が多くの人々に受けいれられるのかもしれない。

 

『「人間以後」の哲学』

そこで、つぎに興味をひいたのは、篠原雅武著『「人間以後」の哲学:人新世を生きる』である。ここで議論されているは、もはや環境破壊をしつくした人間がいなくなるかもしれない未来から、そうならないための方法を考えるということだ。

気になる記述をいくつか紹介してみよう。

 「私たちは、自分が生きているところを、従来の世界への感覚にそぐわないというだけでなく、思考から切り離されたものとして感じるようになっている。たしかに、そこにはインターネットの形成発展が深く関係しているだろう。すなわち、オンラインの世界の成立であり、そこへの没入である。

  これに対して、私は存在の不安が現実の環境の変化に促されていると主張したい。オンラインの世界の外に広がる「地面について世界」のほうもじつは変化しつつあり、その変化ゆえに存在の不安が高まっているのではないか。二酸化炭素排出、宅地造成、海の埋め立て、ダム建設、都市開発は、地球に対して人間が刻みつけてきた痕跡の蓄積といえるが、その過程で、温暖化、海洋汚染、土砂崩れ、豪雨後の家屋浸水といった事態が発生している。人間生活における、根本的な変化である。」

ともすれば、オンラインの世界ばかりに気を留めてきたわたしにとって、この指摘は痛いところを突かれたような気がした。

紹介した文章につづいて、つぎのような記述もある。やや長いが、大切な指摘があるので、引用してみよう。

 「ダノウスキーとヴィヴェイロス・デ・カストロは、『世界の終わり』で、この現実の変化は近代社会を支える思想的設定の変更を迫るものでもある、と主張している。

 

   近代の社会的・宇宙論的地層の美しさが、私たちのまさに目の前で破裂し始めている。その大規模な建造物は、ただその一階部分(経済)を支えにして建っていることができるとかつては考えられていたが、私たちが建造物そのものの土台(一階部分のさらに下にある)のことを忘れていたということが明らかになろうとしている。最終審級における決定がじつは最終的なものではないかもしれないことが知れわたるとき、パニックが発生する(Danowski and Viveiros De Castro 2017, p. 15)。

  ここでは、近代的な思想の到達点の一つであるマルクス主義のドグマ的形態が無効になる、と言われている。かつてカール・マルクス(1818-83年)は、『経済学批判』(1859年)で、政治や文化、宗教といった領域をイデオロギー的な上部構造と捉え、これに対するものとして、経済的な生産様式による最終審級としての下部構造が存在する、と主張した。そして、生産様式が資本主義的なものとして成立していることを問題化し、これを崩壊させ、共産主義的な生産様式を現実のものとすることで、現実の人間生活の悲惨は消滅し、皆が尊厳ある生活を送ることができる、という見通しを示した。

  だが、温暖化や海洋汚染にともなって、経済的な下部構造のさらなる基底にあるものによって人間生活が支えられていることが明らかになろうとしている。それに対する反動として、マルクス主義的な思考と言葉そのものが、現実世界から遊離した新型イデオロギーになろうとしている。世界の成り立ちにかかわる不安は何であるかは、経済的な下部構造を考えるだけではわからない。問われているのは、経済的な下部構造をも規定する、さらなる根底である。この根底を、人間が存在している、まさにそのところとして考えることが求められている。」

さらに、243ページには、つぎのような指摘もある。

 「重要なのは、人間がいてもいなくても存在することが明らかになろうとしている世界において人間はまだ生きていると考えることであり、そこで人間がなお生きていくうえで何が大切になるか、何が求められることになるかを問うことである。」

 

「パラダイムシフト」の必要性

こうした本を読んでいて痛感するのは、「パラダイムシフト」の必要性だ。近代化を前提とした思考の欠陥に気づくとき、まったく新しい思考の枠組みが必要になる。この新しいパラダイムこそ、若い人々への重大な喫緊の課題となるべきものだ。

そこで、副題にある「人新世」にかかわる問題についても紹介しておこう。本には、つぎのように記されている。

 「人間の条件の崩壊と破綻を事物としての世界にかかわる事態として考えていくためにも、ここで人新世にかんする科学論文を参照してみたい。「人新世――概念的および歴史的な視座」という自然科学の論文では、次のように論じられている。

 

   グローバルな環境に及ぶ人間の痕跡は、今ではとても大規模で協力なので、地球システムの作動に及ぶ自然の巨大な諸力のいくつかに匹敵するものになっている。(Steffen, Grinevald, Crutzen, and McNeill, 2011, p. 842)

 

   この論文では、グローバルな温暖化、土地利用の変化、海洋の酸性化といった自然現象が、人間活動が残した痕跡の帰結として捉えられている。科学者である著者たちは、人間の痕跡を一種の物理現象として捉える。人間の痕跡は、二酸化炭素の排出や都市建設や埋め立てといった人間活動の物理的・物質的産物であり、地上におけるその蓄積を意味している。

  だが、人間が地球に刻み込んだ痕跡を人間の実存的条件にかかわることとして考えるなら、それは、まずは地球的な事物の世界への人間世界の進出であり拡張を意味するということにならないか。しかも、それは人間がつくりだす人為的構築物の、地球的事物の自然性から切り離されたところにおける拡張である。人間の痕跡は、自然性を欠落させた人為的構築物が地球的事物の世界に進出していく過程で刻み込まれたものということができる。

  そして、この論文では、この痕跡の蓄積が地球の状態を変えるといわれる。地球の変化は地質学的なものでしかないと考えるのであれば、それは自然科学の問題以外の何ものでもない。だが、地球の変化の帰結としての温暖化や海洋汚染は、人間生活に深刻な影響を及ぼすのであって、そのかぎりでは、人間生活の条件への哲学的な問いにもかかわる事態である。」

ゆえに、とくに若者に「パラダイムシフト」の必要性に気づいてほしいのだ。

わかりやすい話でいえば、マサオ・ミヨシは、「これからの人文社会科学は環境学をベースに再編される」と主張していたという話が出てくる。近代諸制度を前提とした人文社会科学なるものを勉強しても、人新世を生きなければならない若者にはほとんどまったく役に立たないであろう。むしろ必要なのは、21世紀を生きる若者がここでの篠原の危機感に理解を示し、新しい「パラダイム」で自分たちの時代をじっくりと考えることなのだ。

それは、19世紀の坂本龍馬が直面した、彼にとっても新しい「パラダイム」によく似ている。いまこそ、21世紀の龍馬として、人新世期の「パラダイム」を求めて探究し、実践すべきときなのである。 

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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