「専門家」を疑いなさい:Dishonest Abeの化けの皮

「専門家」を疑いなさい:Dishonest Abeの化けの皮

「専門家」がもっともらしいことをのべ、それを「専門家によると」としてマスメディアが拡散するという機会が増えているようにみえます。ただし、こうした傾向はずっと以前からありました。わたしは、2013年に上梓した『すべてを疑いなさい』のなかで、つぎのように書いておきました。

 

「最後に、新聞というメディアに本来、備わっている《権力関係》の問題についてのべておきたい。第一に、新聞がマス・コミュニケーションの有力なメディアとして、明確な権力者の立場にあるという点である。この《権力》は、情報伝達の速度の加速化や複製技術の高度化によってもたらされたものではない。個人における他者性に対する知覚の変化によってもたらされるのだ。もちろん、伝播速度や複製技術の向上は超越的審級の抽象化を促した面はあるが、国民国家の成立や民主化などの結果として、生まれたのである。

新聞は「一日だけのベストセラー」にすぎず、使い捨てられていくものであり、あまり関連のない情報を均質に並べているにすぎないという特徴がある。しかし、新聞は情報発信者の立場にあり、その情報が受け手に伝達され、読まれれば、その受け手は新聞情報に影響されることになる。それは、一回限りの情報であろうがあるまいが関係はない。むしろ、アンダーソンが指摘するように、われわれは朝刊や夕刊が「あの日ではなく、この日の、何時から何時までのあいだに、消費されるだろう」ことを知っており、そのセレモニーへの参加者が数万、数百万人いることも知ったうえで、このセレモニーを毎日、ないし半日ごとに繰り返すことで、「近代国民の品質証明、匿名の共同体へのあのすばらしい確信を創り出しているのである」といえる。

第二に、マス・コミュニケーションの有力なメディアとしての新聞は公論形成を大きく変化させたことである。すでに指摘したように、近代的商業新聞が誕生して以降、大量の読者を獲得した新聞は知名度が生む信用と一体化した合意という公論を生み出すようになり、合理性を徹底的に追求するような議論を回避するような社会的ムードを構成してしまった。つまり、新聞に理由もわからないまま登場する一部の専門家が威信を獲得し、それらの知名度をバックにした発言が信用を勝ち得、公論を醸成するのに絶大な力を発揮することになる。その結果、公論が一部の私的な組織や集団によってムード的につくり出される危険が生まれる。

一方、新聞は客観性、中立性を装うことで、こうした危険に備えている。しかし、実際には、新聞が知名度を生み出す仕組みは曖昧な基準によっており、専門家を新聞に登場させる基準や理由も判然としない。新聞はこうした曖昧さを、別の威信、すなわち、社会的属性を頼りにして隠蔽しようとしている。しかし、専門家の評価や社会的属性そのものが根拠のない曖昧なものにすぎない。近代的商業新聞以前の新聞は思想新聞、政治新聞であったから、各新聞は私論を掲げ、公論たらんとしていたわけで、本来、多くの読者を前提としたマス・コミュニケーションにまでは至らなかった。だからこそ、公論形成にための激論を戦わせる場として、知名度といった曖昧さとは無関係な人々が新聞に登場したわけだ。これは、1920年代に入っても、客観性という言葉がジャーナリストやジャーナリズムの評論家に使われなかったことに示されている。つまり、客観性を装って、公論を形成するのではなく、個別の私論を喧伝して、公論を惹起させるという志向が思想新聞には存在したのである。

客観性は中立性と同じくまったく根拠のない理念にすぎない。客観性や中立性は決して実現できない空論であって、こうした無根拠性が依然として錦の御旗として君臨しているところに、ハーバーマスのいう「公共性の再封建化」が進んでいるのだ。その結果、根拠のない知名度を基準にした公論形成が行われる。」

 

もっと端的に専門家自体を批判する文書としては、未刊の拙著『国家を疑いなさい』のなかでつぎのように書いておきました。

 

「あるいは、叙勲制度を使って、国家が上から目線で国民を餞別化・序列化している。ぼくは、叙勲を決めるシステムがきわめて胡散臭いと感じている。国家が褒章するといっても、国家の一員が恣意的に人間を序列化しているだけであり、こんな制度は法のもとの平等原則に反しているのではないか、とさえ思えてくる。他方で、近代国家は、衛生に力を入れ、国民を生かす方向に国家権力を行使し、それが国家への信頼につながるような工夫を続けている。だが、だからといって、国家を単純に信じてはならない。日本のハンセン病患者への強制隔離政策が世界の動向と反する形で厳しさを増していったことや、その根拠となった1931年制定の癩予防法の廃止が1996年まで遅れたことは国家およびその背下で働く専門家と称せられる医療関係者などがいかに信じるにたらないかを物語っている。国家は人権侵害を平然と行うのである。ここから人権にかかわる問題は国家に任せてはならないという教訓が得られるのではないか。」

 

わたしの専門分野であるロシアに関係していうと、拙著『ロシア革命100年の教訓』のなかに、つぎのように記しました。

 

「学問の世界では、企業統治を各国ごとに比較するような研究が行われている。ただし、この事実に気づいている英語、ロシア語、日本語の文献(本でも論文でも)を読んだことがない。こんなお粗末な認識しかないのが現状であることを大いに強調しておきたい。たとえば、岩崎一郎は『法と企業統治の経済分析』を2016年に刊行した。だが、ロシアの企業に「チェーカー」がかかわっている事実を一切指摘していない。もっともらしく国際比較を展開しているようにみえても、もっとも肝心なロシアの特殊性を見逃しているのである。こんな研究にどんな意味があるのか、筆者にはまったくわからない。これが現在の日本の学問のレベルということになる。いや、世界中を見渡しても大同小異であり、まったく恥ずべき状況にあると指摘しなければならない。若者は権威といったものに騙されてはならない。筆者はこうした似非専門家を糾弾しつづけることで、若者の権威に惑わされない活動を支援したいと望んでいる。」

 

たとえば、上智大学の上野俊彦教授は2016年に剽窃の疑いで学内処分されたと朝日新聞が報道しました。かれはロシア東欧学会会長でもありました。こんな輩を会長に選んでいた学会メンバーのバカさ加減がわかるでしょう。もちろん、わたしは上野の無能を知っていましたから、こんな人物に投票したことはありません。わたしはすぐに、この学会を辞めました。バカがバカを選んで、平然と学会を運営しているからです。こんな学会に入っていても、バカに汚染されるだけですから。

強調したいのは、どの分野の「専門家」も疑うべきだということです。もちろん、わたし自身の研究や発言も疑うできです。マルクスが娘たちに教えたという「すべてを疑いなさい」という姿勢はいまの21世紀にこそ重要なのかもしれません。そこら中に「似非専門家」が存在し、きわめていい加減な言説を撒き散らしているのですから。

 

権力下の「専門家」

「専門家」の多くは「忖度」のなかでインチキな研究を重ね、それを権威で守ろうとしています。とくに、社会科学と呼ばれる領域の「専門家」にそうした傾向が強いのですが、自然科学の分野でも、いい加減な研究がたくさんあります。国家が科学分野に補助金を出す関係で、権威者が「専門家」の研究を評価し、補助金の可否や金額を決めるわけですから、多くの「専門家」は権威主義的にならざるをえないのです。

その結果、「真理」や「事実」が捻じ曲げられて、国家に都合のいい結論ありきの「専門家」によるまことしやかな言説がまかり通ることが頻繁に起こるわけです。その典型が新型コロナウイルスをめぐる騒動のなかで、感染者が多数出たクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」での隔離政策を露骨に支持する脇田隆字感染症対策専門家会議座長(国立感染症研究所所長)でしょう。この人がなぜ権威を振りかざす地位にいるのか、わたしは知りませんが、2月19日の政府の専門家会議後に記者会見した脇田が「(船内での)隔離が有効に行われたと確認した」とのべ、さらに、「乗員から乗客に感染したという証拠はない」と断言したのはまずいと思います。この発言に科学的根拠を認める人など、もはやだれもいないでしょう。はっきり言えば、この程度の人物が「専門家」気取りでいるところに日本全体の不幸があります。バカな「専門家」が権威主義に守られて鎮座しているだけなのです。しかも、この人物がPCR検査を遅らせてきた張本人であることは間違いありません。いわば、カネのために日本国民の命を危険にさらしてきたのです。

科学者であるなら、「真の専門家」たらんとする者であるならば、もっと別の言い方があったはずです。「新型コロナウイルスそのものの特徴がわかっていない以上、憶測は控えたい」とか、「感染力など、不明な点が多いので、最大限の警戒をもって対応していくよう要請したい」とか、まあ、もっと謙虚な物言いができるはずなのです。いい加減な「専門家」ほど、平然と「嘘」をつくのではないかとすら思えてきます。権威にすがって自らに甘い。おまけに、楯突く者には高圧的になる。それが「似非」たるゆえんなのでしょう。

そもそも、日本はPCR検査を積極的に実施する態勢づくりを怠ってきました。感染者数を増やしたくない政府の「陰謀」かもしれませんが、それにしても、感染者かどうかをチェックすらできないで、感染率を含めて何の科学的な研究もなしえないのではないでしょうか。こんなお粗末な状況であるにもかかわらず、「専門家」が何を言ってもそれは根拠のない、たわごとでしかないのです。それにもかわらず、マスメディアに登場する「専門家」はしたり顔で偉そうなことをいう。厚顔無恥こそ、「似非専門家」の専売特許なのかもしれませんね。

 

Dishonest Abeの真骨頂

日本の対応をみて、Dishonest Abe(安倍晋三)がまさにまったく不誠実で不正直者であることが世界に知れ渡ったと思います。ろくにPCR検査もしないまま、沈静化を求めるのはおかしいでしょう。クルーズ船の対応でつまずいただけでなく、国民への発信も間違っています。前述したように、そもそも「専門家」の知見が疑わしい以上、現状把握に努めつつ、最悪のケースに備えることが必要だったはずなのです。ところが、「専門家」がいい加減なことすら知らないのか、あるいは、「専門家」を権威でねじ伏せることができると思っているのか、Dishonest Abeは場当たり的な対応に終始しています。

安倍は政府の専門家会議の冒頭に数分間だけ姿を見せるだけです。つまり、本人は話を聞いてもわからないからなのか、その場にいません。おまけに、夜は日経や読売の幹部などと会合にあけくれています。「おまえは国民の命をどう守ろうとしているのか」と言いたくなります。

急に、「全国の小中高を春休みまで一斉休校しろ」という要請もDishonest Abeの真骨頂のようにみえてきます。文科省の役人さえ知らずに、安倍がトップダウンで勝手に決めたのです。もうこの国は安倍という大バカ者によって支配されている独裁国家そのものなのですよ。「口頭決裁」なるものがあることを法務大臣が認めています。「法の支配」と意味もわからずに言いながら、まったく法を無視して好き勝手な判断がまかり通っているのです。

PCR検査態勢の整わないなかで、場当たり的な対応をしてみても、国民を不安に陥れるだけです。Dishonest Abeを諫めることができる人物が近くにいないことがバカな安倍を増長させてしまっています。そもそもDishonest Abeは公職選挙法に違反している犯罪者である可能性が濃厚なのですから、こんな輩が首相をしていること自体がおかしいのですが。

 

オリンピックの延期は当たり前

新型コロナウイルスの実態把握に積極的に取り組んでこなかった日本政府は、世界からバカにされています。PCR検査をしなければ、感染者数が少ないのは当たり前です。イタリアの感染者数が増えていますが、これを見れば、日本の感染者数が少ないのはきわめて不自然でしょう。Dishonest AbeがまさにDishonestであることを世界中がよく理解したと思います。こんな国でオリンピックをするといっても、世界の国々は不安に思うだけでしょう。何しろ、感染者隠しのためにPCR検査さえろくにできない国なのですから。そして、そうした点さえ反省しない国なのですから。

ついでに、政府の新型コロナウイルス感染症対策本部の会合を欠席して地元後援会の新年会に参加した小泉進次郎や、同じく欠席した萩生田光一文部科学相と森雅子法相も、政治家失格でしょう。「専門家」の緩い言説に惑わされたのかもしれませんが、そもそも「専門家」がいい加減であることに気づいていないこと自体が政治家失格なのです。権力関係そのものに対する洞察力が足らないのです。まあ、「もっと勉強しろ」ということになりますね。

Dishonest Abeのこの1カ月間の動静をみると、まったく危機感がたりません。Dishonest Abeの「正体」がようやく日本国民にも見えてくるのではないでしょうか。

 

 

P.S.

萩生田の2月28日の会見を見ました。「危機感を共有してほしい」というかれの発言はおかしいと思います。「お前は危機感などまったくもっていなかっただろう」といいたい。かれは「専門家が言っている」ことを材料に休校を決めたと説明しましたが、もしわたしが記者であれば、「何という名前の専門家がいつ、どういう理由でどう言っているのか」とただしたでしょう。そもそもPCR検査もしない状況で、専門家に何かわかるというのでしょうか。きわめていい加減な「専門家」の言うことなど、そもそも信じてはならないのです。

妻の報告によると、すでに港区高輪近辺の複数のスーパーでは、明らかな買いだめがはじまっているという。バカな政治家、バカな「専門家」、バカなコメンテーターの言うことなど信じられないから、国民は自衛策にはしらざるをえないのです。Dishonest Abeおよびその取り巻きどものの責任はきわめて重い。こんな連中だからこそ、国民の生命すら守ることができないのだ。

ついでに、NHKの報道はひどすぎます。バカそのものの安倍が決めたことをまったく無批判に放送しています。まさに、独裁国家の拡声器の役割を果たしているだけです。報道の中立性を徹底しようなどという気概がまったく感じられません。民放もひどいですが、NHKだけは見ないほうがいいでしょう。嘘、出鱈目ばかりが目立ちます。

 

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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