ホモ・サケル、サバルタン、そして「デジタル資本主義」と「デジタル全体主義」のいま
ホモ・サケル、サバルタン、そして「デジタル資本主義」と「デジタル全体主義」のいま
やや難しい話をしたい。まず、「ホモ・サケル」について語ろう。以下にのべることは、拙著『官僚の世界史』(社会評論社, 2016)終章の註(8)に述べたことである(pp. 309-311)。
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「主権」を論じたジョルジョ・アガンベンの『ホモ・サケル』を紹介しておこう(Agamben, 1995=2003)。主権についての別の説明をするためだ。「ホモ・サケル」は「聖なる人間」を意味している。いわば、法のなかで規定されていない、法や規範の埒外におかれた人間なために、この人間を殺害しても処罰されないが、儀礼によって認められる形では殺害してはならない(決められた形で犠牲化してはならない)とされる。
ホモ・サケルは、彼に対してすべての人間が主権者として振舞うことを可能にするが、主権者自身は彼に対してすべての人間が潜在的にはホモ・サケルであるような者として顕現する(同, p. 122)。主権者はその主権がおよぶ範囲内で、他者をどのように扱うことも許された者となる。国家が主権者と位置づけられるようになれば、国家はその主権のおよぶ範囲内の人間を殺しても殺人罪に問われない資格を獲得することになるのだ。
問題はホモ・サケルがそもそも法にとっての「例外状態」として、「剥き出しの生」という自然状態にあり、法的状態とはまったく分離されていたのに、西洋の法においては当初、例外的な状況下で法的状態と自然状態が互いに互いをその内部に含み合うような関係になり、最終的には両者が重なり合い、まったく区別できないものになった点にある。法的な概念としての「主権」が確立すると、もともとは例外状態におかれていたホモ・サケルとの関係が他者全体にまで広がることになるというのだ。
ところが、仏教のもとでは、あるいはカースト制においては、例外状態としての自然状態と法的状態があくまで分離されている。他方、キリスト教世界では、ホモ・サケルという例外状態が法的状態と重なり合うことで、法が機能するようになり、普遍性へと近づくのだ。ここに、「法の支配」(rule of law)を優先する、西洋のキリスト教世界がたまたま出現したことになる。どうしてそうなったかというと、それはイエス・キリストが神の子として、生身の人間の姿をとって現われたからである。人間は自然の一部であり、その人間でありながら神であるキリストがたまたま現れたことで、自然状態と超越的視点をもとに生じる法的状態が重ね合わされてしまったのである。
西洋においてこの主権者の座に最初に君臨したのは「法権利」である。それは、「規制は例外があって生きる」ということを実践していることになる。つまり、「法権利は、法権利が例外化の排他的包含によって自分の内に捉えることのできる以外の生をもたない」のである(同, p. 43)。これは例外が主権の「構造」であることを意味している。ゆえに、アガンベンは、「主権とは、法権利が生を参照し、法権利自体を宙吊りにすることによって生を法権利に包含する場としての、原初的な構造のことである」としている(同, p. 44)。
主権の構造を理解する手掛かりとして、ホモ・サケルを考察すると、神に生け贄にしてはならないホモ・サケルは、人間の裁判権の外におかれているだけでなく神の裁判権のもとに移行されてはいないが、すでに神の側にあることになる。ホモ・サケルの犠牲化の禁止は、ホモ・サケルと奉献される生け贄とを同一視することを禁じるだけでなく、ホモ・サケルに加えられる暴力が聖なる事物に対して加えられるような冒瀆にはあたらないということを含意しているからだ。ゆえに、ホモ・サケルは犠牲化不可能という形で神に属し、殺害可能という形で共同体に包含されるのだが、主権による例外化において、法は自らを例外化から外し、例外事例から身を退くことによって、例外事例へと自らを適用するのである。この手続きによって、法は自らを特権化する。
こう主張するアガンベンからみると、ホッブズの主権に対する議論はおかしいことになる。万人の万人に対する戦いという自然状態は、都市が「まるで解体してしまっているかのよう」な例外状態として想定されたものであり、誰もが他の者に対して剥き出しの生でありホモ・サケルであるという状況としてみなさなければならないという(同, p. 151)。このとき、ここでの安全を確保するために臣民がとるべきなのは、自分の自然権を譲渡することだという論理で、主権権力を基礎づけることではない。その安全は主権者が自分の望む相手に対して望むことを行うという自分の自然権の保存に求められるべきであり、現に、国家は個人との自主的な契約に基づいているのではなく、主権的暴力が剥き出しの生を国家の内に排除的に包含することによって成り立っているのである。それは人々をホモ・サケルへと追いやる、締め出すことを意味している。ゆえに、「近代において、生は国家の政治の中心にしだいにはっきりと位置づけられ(フーコーの用語では、生政治的となり)、現代にあっては、すべての市民が、ある特殊な、だが現実的きわまる意味で、潜在的にはホモ・サケルの姿を呈している」と、アガンベンは主張するのである(同, p. 157)。
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最後の指摘はきわめて重要だ。なぜならいま現在、まさに「すべての市民が、ある特殊な、だが現実的きわまる意味で、潜在的にはホモ・サケルの姿を呈している」と言わざるをえないからである。
ここで、サバルタンの話に転じよう。サバルタンは、社会・政治・経済・地理的に阻害された従属者を意味している。本来は、インド近代史の研究から生み出された概念だが、ガヤトリ・スピヴァクの「サバルタンは語りうるか」という論文を契機に一般的な文脈でも使われるようになった。同論文で考察対象となっているのは、ヒンドゥー教徒で、夫に先立たれた妻が夫の死体を焼く火葬の火のなかに身を投じて殉死する慣習にさらされていた女性である。インドを植民地化したイギリス当局は、この慣習を禁止したのだが、スピヴァクは、ヒンドゥー教のこの寡婦殉死の慣習とそれに対する禁止をめぐる言説の配置を主題化しながら、論文のタイトル、「サバルタンは自らについて語ることができるのか」と問う。
ここで、大澤真幸の優れた分析を手掛かりにしよう(『ナショナリズムの由来』, pp. 482-484)。
この慣習の禁止に対して、論理的に可能な言明は、つぎの二つ。①「白人(男性)が茶色の男たち(インド人男性)から茶色の女たち(インド人女性)を救った」という言明と、②「女たちは本当に死ぬことを欲していた」という言明である。①は「人権」のような普遍概念に基づいて、禁止を肯定する言明だ。それに対して、②は、ヒンドゥーの伝統の特殊性に立脚して、禁止を拒否し、慣習を肯定する言明である。
スピヴァクは、古代以来のヒンドゥー法の言説の伝達過程を精神分析学的に解釈し直すことで、寡婦の自己犠牲についての規則は、女性を一人の夫にとっての客体として定義しているのであって、ヒンドゥー法の内にプログラムされてきた、主体の地位をめぐる一般的な(男女の)非対称性極端にまで推し進めた結果である、と結論する。
すると、これら二つの言明のどちらにおいても、ネイティヴの女性の言葉が現れないことになる。二つの命題によって、論理の空間は尽くされているようにみえる。また両者の帰属点によって、社会システム内の可能な立場も尽くされているようにみえる。つまり、二つの命題の和は、十分に包括的で普遍的なものにみえる。だが、それにもかかわらず、排除されている発話がある。それは、インド人女性、ネイティヴの女性の発話だ。スピヴァクは、①と②のどちらの発話のなかにも、インド人女性の言葉は現れてはいない、と指摘する。インド人女性は、①のように言われても、また②のように言われても、自らが疎外されていると感ずるだろう。ネイティヴの女性が、そこからみずからを語りうる空間が、初めから失われているのである。ネイティヴの女性の言葉が、誰にも聞き取られていないのだ、ともいえる。だから、スピヴァクは、サバルタンは語りえない、と結論する。
こう説明したうえで、大澤は、「つまり、このインド人女性にその例を見ることができるように、資本主義的な世界システムの中で、主体的に語ることの可能性が、あるいは、語る主体として承認され、聞き取られる可能性が、奪われている者たちが出てくるのだ」と指摘している。スピヴァクらはそうした人々を「サバルタン」と呼んだのである。
ここで、今度はアントニオ・グラムシがサバルタンに注目していたことを思い出そう。従属的社会集団に属する人々をサバルタンと呼んで、彼は獄中ノート25のなかでサバルタン論を展開している。ゆえに、私は拙著『サイバー空間における覇権争奪』(社会評論社, 2019年8月刊)の終章でつぎのようにのべている。
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グラムシを逆手にとったトランプ
もちろん、「マシーン信頼」を支持すべきだと言っているわけではない。歴史の流れを冷徹にながめ、その位相をよく理解したうえで対処すべきであると強調したいのだ。本書の冒頭でグラムシを紹介したが、グラムシは社会が「支配」ないし「力」および「ヘゲモニー」の組み合わせを通じてその安定性を維持していると考えた。このとき、ヘゲモニーは「知的・道徳的指導権」への合意と定義された。社会秩序は社会的境界線とルールを維持するために暴力的に権力や支配を執行する機関・集団(警察、軍隊、自警集団など)と、ヘゲモニーの創出を通じた支配的秩序ないしイデオロギー的支配(市場資本主義、ファシズム、共産主義など)への合意を説く機関(宗教、学校、マスメディアなど)によってつくり出され、また再生産される。とくに、ベニート・ムッソリーニによって投獄された彼はこうした自説を刷新・拡張したのだが、そうした彼の思想はフランクフルト学派へと受け継がれ、『複製技術時代の芸術』のウォルター・ベンヤミン、文化産業の欺瞞を暴いた『啓蒙の弁証法』を書いたテオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーの著作へとつづいた。
注目すべきはこのグラムシを源流とする「左翼思想」が米保守主義の代替として登場した「オルタナ右翼」に取り入れられ、トランプ政権誕生の原動力となったことである。グラムシは常識と翻訳されることの多い“common sense”(イタリア語でsenso comune)に注目する。このとき彼が力点を置いたのはcommonの側であり、そこで重要なのは集団的で社会の有力な要素となった意見の総体であり、ラディカルな変革をもたらしうる政治運動を動員する「知恵」なのだ。とくに、社会・政治・経済・地理的に阻害された従属者である「サバルタン」のような人々に働きかけ、彼らにとっての「真実」をグラムシのいうcommon senseとして提示し際限なく繰り返すことで、彼らにcommon senseとして受け入れてもらえれば、彼らの支持は絶大となる。このとき、真実に基づく論拠はいらない。
このやり方こそ、トランプの手法なのである。問題はその彼が大統領に就任したことで国家自らが信頼を損ねる行為を繰り返していることだ。弱体化しつつあるとはいえ、覇権を握る米国がこのあり様なために「国家信頼」は急速に衰えている。トランプのやり方を模倣する政治家が増殖する一方で、「国家信頼」を支えてきたマスメディアは「フェイクニュース」と揶揄されて力を失いつつある。これがいまの歴史的位相なのだ。だからこそ、世界全体が「マシーン信頼」や「ネットワーク信頼」へ傾いても仕方ない状況が生まれていると言える。
グラムシはもう一つ、重大な論点に気づいていた。それは、伝統が培った生活慣習を「歴史的堆積物」と呼び滓(おり)とみなしたうえで、それが簡単に溶け出すことを予測していたことである。サバルタンがサバルタンでなくなると、これまでの文化の古い鎖を溶解してしまうのである。この変化は一人ひとりの人間への尊重、人権に普遍性を見出そうとする視線から生み出されている。性差別やLGBT差別へのまなざしはその反作用として個々人の大切さを訴える。いわば、一人ひとりの人間を聖なる地位に置く。しかし、それは同時に個々人の個別化や断片化を促し文化による束縛を溶かす一方で、カネという尺度を普遍化しカネという単位・数値ですべてを評価する動きを広げる。
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おそらく現代は、ITによって個々人を「ホモ・サケル」や「サバルタン」に近い状態に追いやる環境をつくり出しているのではないか。それが個々人の個別化や断片化を促すと同時に、猛烈な普遍化が進んでいる。だが、個別化・断片化された個々人はもはや人間や国家に頼るのではなく、マシーンやそれを支えるネットワークにしか頼れない。
逆に言えば、そうしたマシーン信頼やネットワーク信頼を国家がうまく逆手にとって自らの統治に利用できれば、「デジタル全体主義」を構築できるかもしれない。これに対して、グーグル、フェイスブック、アップル、アマゾンのように「テック・ジャイアンツ」があくまでマシーン信頼やネットワーク信頼の構築に主導的役割を果たせれば、国家を超えた地球規模の新しい統治形態が生まれるかもしれない。
こんな問題についていま、一所懸命に考えている。
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