『監視資本主義』をめぐる所感
『監視資本主義』をめぐる所感
塩原 俊彦
このところ、すばらしい本を2冊読んだ。一冊は岡崎乾二郎の『抽象の力』(亜紀書房)であり、もう一冊はShoshana Zuboff著The Age of Surveillance Capitalism(Profile Books)である。いずれも、少なくともこの5年間に読んだ本のなかでもっとも強烈な印象を受けた書籍と言えるだろう。ここでは、後者についてのみいくつかの所管をのべてみたい。来年度の授業構成を構想するヒントにするための論点整理をしておきたいのである。
最初に指摘しておきたいことは、新しい事態を説明するには新しい語句や用語が必要になるという点である。ズボフは「監視資本主義」という新語を発明して21世紀のいまを説明しようとしている。この事態を解明するには、監視資本主義だけではなく、さまざまの新概念が欠かせない。逆に言えば、耳慣れないさまざまな言葉が登場するために彼女の主張を理解するのはそう簡単ではない。しかし、だからこそ、彼女の分析は時代を着実かつ明晰に分析しているのではないかと読み手に思わせるだけの力がある。
『監視資本主義』の概要
彼女の力作をできるだけわかりやすく説明すると、つぎのようになる。
「監視資本主義」は産業資本主義の変容したものだから、両者を比較することで監視資本主義の本質がみえてくる。産業資本主義は、①手工業の、標準化・合理化・部品交換可能性に基づく大量生産への転換、②可動式組み立てライン、③工場環境に集中した大勢の賃金稼得者、④専門化された経営上のヒエラルキー、⑤管理上の権威づけ、⑥機能別専門化、⑦ホワイトカラーとブルーカラーの区別といった専門的分業化を特徴としている(pp. 347-348)。カール・マルクス流に言えば、「労働力の商品化」によって特徴づけられていることになる。
この産業資本主義は国家による「魂」のつくり替えという「全体主義」を一部の国にもたらす。ヒトラーやスターリンは秘密警察による虐殺、プロパガンダの洪水、階級や人種を名目とする残虐行為などを通じて全体主義を広げようとした。ジョージ・オーウェルの『一九八四年』は、こうした全体主義に対する批判として1949年に出版されたものである。このなかに登場する「ビッグ・ブラザー」(Big Brother)は単にあらゆる思考や感情を知っているところにその本質があるのではなく、むしろ容認できない内的経験を無効にし、それに取って代わることをねらった無慈悲な執拗さを本質としている(p. 372)。
これに対して、監視資本主義では、「ビッグ・アザー」(Big Other)が登場する。監視資本主義はいわば操り人形を自由に操れる人のようなものであり、偏在するデジタルな仕掛けという媒介物を通じてその意志を強いるのだ。その仕掛けこそ「ビッグ・アザー」であり、人間行動を表示・監視・計算・修正する、五感によって知覚され、コンピューターによって結びつけられた「操り人形」なのだ(p. 376)。この「ビッグ・アザー」を想定して、その行動を予測して利益につなげるという「行動剰余」(behavioral surplus)が得られるようになる。いわば、新しい「剰余価値」の登場である。
この行動剰余を得るには、人間の経験のすべての局面を行動データに「翻訳する」新しいマシーン過程(new machine processes for the rendition of all aspects of human experience)が必要とされている(p. 339)。そのためには、修正・予測・マネー化・コントロールに向けた行動の道具化という現象が起きる。いわば、この道具主義に基づく権力は人間の経験を計量可能な行動に矮小化し、そうした経験に対する「ラディカルな無関心」(radical indifference)を呼び起こす。この無関心のために、数十億、数兆ものコンピューターの「目」や「耳」が「行動剰余」の広大な蓄えを観察・表示・データ化・道具化できているかぎり、「ビッグ・アザー」は人間の思考や感情を気にかけない。「ビッグ・アザーは合法的契約、法の支配、政治や社会信頼を新しい主権形態やその私的に統治される強化政体に代替させる」という指摘は重要である(p. 514)。
ここまでの記述を全体主義と道具主義と対照しながら簡略化してみよう(p. 396-397)。なお、道具主義については、マックス・ホルクハイマーのいう「道具的理性」(instrumentelle Vernunft)を想起すべきだろう。彼は、啓蒙における理性とは目的の純粋な道具であろうとする古くからの野心をもち、本質的に手段と目的に多かれ少なかれ自明のものと考えられている目的に対する手続きの妥当性に関心をもち、目的自体が合理的であるか否かという問題にはほとんど重きをおかないとみなした。彼は、啓蒙の理性は所与の目的達成の道具にすぎないという意味で「道具的理性」にすぎないとしたのである。にもかかわらず、この道具的理性ないし目的合理性は、「命令はそれが〝物化〟されることによって、リアリティを得、いかにもその命令に根拠があるように見える」という思考に支えられている点に留意しなければならない。理性への無関心は知性に基づく利益一辺倒の思考につながりかねない。それがAIという知性に導かれるだけで理性を無視する監視資本主義への変容に結びつくことになるのだ。
全体主義は「ビッグ・ブラザー」のもと、恐怖や恣意的テロ、殺害、暴力を使って、大衆全体に働きかけ、全体としての所有を重視する一方で、個々人の孤立化や原子化をはかり、国家への絶対忠誠・服従を迫る。これに対して、道具主義は「ビッグ・アザー」のもと、コンピューターによる予測に基づく確実性を重視する一方で、ラディカルな無関心のもと個々人のラディカルな接続をはかり統計的な結果を志向する。
結論部分でズボフはつぎのようにのべている(p. 515)。
「3世紀以上もの間、産業文明は人間の向上のために自然をコントロールすることにねらいを定めてきた。マシーンは、我々がこの支配目的を達成できるようにするための動物の身体の拡張や限界克服の手段であった。……
現在、我々は私が情報文明と呼んだ新しい展開のはじまりにあるのだが、それは同じ危険な尊大さを繰り返している。その目標は現在、自然を支配することではなくむしろ人間を支配することである。焦点は、身体の限界を克服するマシーンから、市場を目的とするサービスにおいて個人・集団・全住民の行動を修正するマシーンに移った。」
ここまで説明してもなお、内容が判然としないかもしれない。ズボフの主張を大胆に要約すれば、GoogleやFacebookなどの巨大IT関連企業はデジタル化した情報に基づく行動予測に基づいて「行動剰余」を得ようとしており、それは自然に働きかけることで剰余価値を得ようとしてきた産業資本主義と異なり、人間自身を観察・表示・データ化・道具化の対象としてとらえ、人間を内部から道具化し、脱主体化しようとしているようにみえる。
問題は、中国がこの行動剰余を国家自体の手中に収めようとしている点にある。こうなれば、「ビッグ・アザー=ビッグ・ブラザー」となり、「デジタル全体主義」というかたちでの全体主義が再来しかねないことになる。
「21世紀龍馬」たる者はこうした懸念をはっきりと見定めたうえで、新しい時代を切り拓くための熟考を重ねなければならないと思う。
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