Dishonest Abeの無知のもたらす影

Dishonest Abeの無知のもたらす影

塩原 俊彦

 

2018年3月26日、『潮』の編集者とのインタビューを行いました。そのなかで話したことで、やや複雑な問題についてここで補足しておきたいと思います。それは、いわば、Dishonest Abeの無知にかかわる影の部分についてです。

 

このサイトではすでに、Dishonest Abeが「法の支配」(Rule of Law)についてまった理解していないと指摘しました。具体的には、「Dishonest Abeは人治主義・反法治主義」において、Rule of Lawという概念が英国圏の概念であり、その成立過程は“rights”の意味が、「正しさ」から「権利」(あることをするか、しないかという選択の自由にかかわる)に傾いてしまう時期に重ねて理解しなければならないと指摘、そのうえで、つぎのように書きました。

 

「法を意味するlawは、あることをするか、しないかをどちらに決定する束縛を伴うものであり、その法が民主的手続きに則って制定されれば、その法が「正しい」ことを不可避的に内在することになり、法そのものへの懐疑の念を弱体化させ、法は束縛として人間を拘束することになる。しかも、この法は共同体を前提に制定されるものであって、神の命令としての自然法ははるか昔に忘れ去られ、人間がつくる共同体全盛の時代になってしまっている。」

 

「法の上に人をおく」か「人の上に法をおく」か

ここで、Rule of Lawという英国では、「法の上に人をおく」ことが前提とされていたことに注意を喚起する必要があります(ここで記述することは拙著『官僚の世界史』でも論じていますから、関心のある方はそちらをご覧ください)。

 

「近代国家理論の重要な概念は、すべて世俗化された神学概念である」と看破したのはカール・シュミットです。シュミットの神学にとって、神は、他になにものによっても基礎づけられることのない「人格的命令」の契機を保持しています。本来、神の命令について人間が議論することは不遜であり論外であり、我々が神に従うのは、それが正義であるゆえではなく、神がそれを命じるからなのです。ゆえに、神は、あらゆる規範的拘束から自由な絶対者となります。しかし、「社会契約」に基礎づけられた法治国家になると、法規範を超越した国家の「人格的命令」の契機は消失します。神に代わる人工的神であるリヴァイアサンには、神として有無を言わさず、人間に命令を出すことはできません。国家の決断はその無誤謬性ゆえにではなく、「いかなる誤謬のかどによっても告発されえない」という意味で権威あるものとなるにすぎません。だからこそ、ホッブズは「真理でなく権威が法をつくる」ととなえ、シュミットはこれを評価しているわけです。

 

そのうえで彼は、法規範を超越した国家の「人格的命令」の契機に代わって、「抽象的規範の客観的効力」、「抽象的に通用する秩序」が支配するようになると考えています。これらが国家権力の全能からその神的性格を導き出すことで権威となることによって、「法の上に人をおく」体制をホッブズは主張するに至ります。つまり、「抽象的規範の客観的効力」や「抽象的に通用する秩序」が神的性格を帯びた権威となることで、リヴァイアサンによる立法化が正統性をもつことになるのです。

 

これに対して、欧州大陸では、君主と臣民との間の服従契約は、相互的な約束にもとづく双務契約であり、君主の命令は自然法・神の法や公共の福祉に合致せねばならず、臣民はその限りにおいて君主への服従義務を負うとされてきました。しかし、この双務契約においては、君主のなんらかの措置が、この自然法・神の法や公共の福祉に合致するかどうかを決定する権限がどこに帰属するかは、一義的に明確ではありません。判定権の所在が君主にあるのか臣民にあるのかは明らかにならず、ここに主権は二元化しかねないことになります。この二元化を避けるために、「法」自体が神に近いものとして想定されることになるのです。

 

ここでジャン・ジャック・ルソーのいう、人民主権を思い浮かべる必要があります。この人民主権とは、各個人がそれぞれに裁判官であり判定権を有することを意味するものではありません。主権者としての人民団体と臣民(subjects)としての各個人との契約において、両者の紛争を解決できる共通のいかなる優越者も実在しない以上、契約履行については、どちらか一方の契約当事者である主権者の判定に委ねられることになります。この主権者の二元性を回避するために、ルソーは、主権者としていかなる者にも制約されない命令であると同時に、絶対に誤ることのない規範を想定します。ルソーの主権者はその理念において、神の二つの属性である正義と権力の両方をかねそなえたものとなるのです。そこで登場するのが理性法としての自然法です。その自然法は国家法に優越する権威であり、国家法は自然法に反することはなにも命じてはならないことになります。神の法である自然法が国家法より上に立つことで、人間界での国家をめぐる闘争、抵抗権を認めることが可能となります。

 

再論、ホッブズとルソー

わかりにくいかもしれません。もう一度、ホッブズとルソーの思想をわかりやすく説明しましょう。ホッブズにおいては、諸個人は相互の結合契約にもとづいて、一切の権利、意志と判断を単一の主権者たる国家に譲渡します。ここでは、主権者と臣民との約束は片務的であり、主権者は臣民の拘束から解放され無制約な主体となります。これは、人々のために神と話ができるというモーセと盟約(covenant)を結んだ人々が、モーセによって語られるすべてを神の言葉として受け容れることに対応しています。つまり、「神奉仕」と同じように、共同体でしかない国家を神として崇めることが要請されていることになります。

 

このホッブズの社会契約論では、諸個人の自然権を譲渡された主権者たるリヴァイアサンが「法の上にたつ」ことなります。法自体をつくるわけですから。このリヴァイアサンは神として崇めることを要請されている権威をもった主権者を意味しているわけですが、その実体は代理人たる人間なので、「法の上に人をおく」という体制なわけです。

 

こうした主権国家においては、国家がその主権を守るために暴力的に法を押しつけてくるという危険がつねにあります。だからこそ、ここでは主権国家に対する抜きがたい不信感が生まれてきます。人間が自分の属する国家をだけを前提に、その国家の主権保持を錦の御旗として、自国内での民主主義の手続きを経て、自国内の一部の人間集団の利害を代表する政策があたかも国民全体の総意であるかのようにふるまう結果、正義からかけ離れた行為が法によって規制されない事態が起きるのです。それはまさに、「法の上に人をおく」という社会契約思想そのものの結果とみなすことができます。

 

これに対して、ルソーは「人の上に法をおく」立場にたちました。「特殊意志」ではない、「一般意志」を具体化する、集合的な単一の人格としての「公民」が構成員として想定され、それが自発的に参加する「結社」(アソシエーション)としての政治体が主権国家であり、その主権に具体的に参画するのは市民と考えるのです。ここでの「社会契約」は主権者たる国家に統治権を譲渡する、垂直的な「統治契約」ではなく、「公民が公民となる」ための水平的な「社会契約」であり、市民は公民となることが前提とされている。ゆえに、市民という名で個々人の独善的なの利益だけを優先し、それを民主主義という手続きを盾にして国民の総意とする英国や米国と異なって、フランスやドイツといった大陸諸国では、「公民」という立場に立つところに「正義」を考える必要が生まれます。

 

一般意志についても説明しておきましょう。これは法の実定化に際して、自然法に反することはなく、誤ることがないとされています。それは、すべての人間を救う「神の意志」に由来しているからです。問題は、そうした意志がどう形成されるかにあります。この一般意志は、国民各人の特殊意志の総和としての全体意志とは異なって人間がつくり出す秩序の外部にあります。「全員意志」は「私的な利益」を追求する「個別意志」の「総和」ですが、一般意志は「共通の利益」のみを追求するものであり、「全員意志」に基づく「集合体」と峻別される「結合体」が一般意志に基づく結合のあり方を示すことになります。だからこそ、こうした人の上に自然法に近い法がくるわけです。すべての人々の結合から形成される公的人格こそ「公共体」であり、その構成員は「公民」(citoyen)と呼ばれています。

 

一般意志から公民へのつながりにおいて重要なことは、ルソーがあくまで「一般性」と「意志」に注目した点です。時空を超えた、あるいは神と向き合うような普遍性を議論の対象としていたわけではなく、あくまで「キリスト教共同体」という共同体を適切な規模たる真の社会に置き換えようと試みたにすぎない点に留意しなければなりません。

 

Dishonest Abeが英米法重視している怖さ

わかってほしいのは、どうやらDishonest Abeがここでいう「法の上に人をおく」というホッブズ的な社会契約を前提に英米法を重視しているという点です。本人自身がここでの議論を知っているとはまったく思いませんが、自らがリヴァイアサンになろうとしているかにみえるDishonest Abeにとってホッブズ流の社会契約論のほうが都合がいいのでしょう。

 

「法」を自然法の近くに想定する「人の上に法をおく」というルソー流の社会契約論をとっていれば、法の改竄といった自体はずっと起きにくいと思われます。神に近い法を冒涜することなどできないでしょうから。どうやらDishonest Abeの立場そのものが「法」を軽視する国づくりにつながっているように思えます。こんな人が首相や国会議員であることに驚きを禁じえません。

 

最後に、3月27日の佐川宣寿への証人喚問について所管をのべてみましょう。痛切に感じるのは、人間の「出来」というものです。まず、ここでのべた「公民」たりえない人物が公務員を務めてきたことを残念に感じます。そうした人物ばかりを養成してきた日本の公務員教育に恐ろしさを覚えました。政治家や官僚の多くが品性下劣であることは以前から承知していましたが、その印象がますます強まったことも指摘しておきましょう。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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