閑話休題16 『不安時代』あるいは『日本不全』について
『不安時代』あるいは『日本不全』について
塩原 俊彦
しばらくサイトを更新しませんでした。『不安時代』あるいは『日本不全』(いずれも仮題)という原稿を書いていたからです。400字詰め換算で400枚ほどの原稿が本日、完成しました。明日、二人の編集者にメールで送る予定です。うまく本になれば幸いです。
ともかく、その中身を知っていただくために、「はじめに」の部分を公表したいと思います。「はじめに」だけを読んでも、わたしの思いを理解してもらうことはできないでしょうが、合わせて参考文献をつけておきますから、関心のある方はぜひ、読んでみてください。
************************************
はじめに
「セキュリティ」(security)という言葉は、ラテン語の“securus”(形容詞)ないし“securitas”(名詞)を語源とし、これらは欠如を意味する“se”(~がない)という接頭辞と、気遣いを意味する“cura”の合成からなっています。これらのラテン語は、エピクロスらが人間の到達すべき理想としたギリシャ語の「アクラシア」(合成語で「心が乱されていない状態」を意味する)の訳語・対応語として用いられたものでもあります。つまり、「気遣いのない状態」こそを「セキュリティ」なのです。
他方、「安全」という日本語は、かなり古くから、たとえば『平家物語』第三巻の「医師問答」で「願はくは子孫繁栄絶えずして(……)天下の安全を得しめ給へ」という形で用いられており、その意味も今日と同様、危険のないこと、平穏無事なこと、であるのです(『日本国語大辞典』)。しかし、この「安全」という言葉は当初、英語のsecurityの訳語としては用いられず、これには「安心」「安穏」などがあてがわれる一方、safetyの訳語として用いられました(ヘボン『和英語林集成』, 1867年)。市野川容孝の調べでは、1884年の『明治英和辞典』で初めて(safetyと同時に)securityの訳語として「安全」が登場しました。Safetyとsecurityの両方に対応できるドイル語のSicherheitに対しては、すでに1872年の『和訳独逸辞典』で「安全」という訳語があてられているということです。
この“security”を接頭辞“in”で否定したのが“insecurity”です。すなわち、「気遣いのない状態の否定」を表すわけですから、「不安定な状態」や「不安(感)」を意味していることになります。21世紀に入って、世界中にこの“insecurity”が広がり、まさに「気遣いのない状態の不在」が懸念されています。こうした時代のムードをつくり出しているのは、2001年9月11日以降のテロリズムへの「恐怖」でしょう。主権国家の常備軍たる武力だけでなく、少数の反動勢力による暴力にも気遣いする必要性が痛感されたところに“security”の重要性が高まったと考えられます。気遣いと安全の関係に着目すると、「気遣いがあるから危険が立ち現れるのであり、また、危険が見出されるから、それへの気遣いが求められる」ということになります。別言すると、安全を脅かす危険に対して、それを除去・否定する気遣いを想定すればするほど、その気遣いは“security”の強化を促しますが、その気遣いの対象は「無限」に想定できるわけですから、“security”の強化も際限なくつづきます。気遣いを再帰的に繰り返し継続することがもはや停止できないほどに“security”の強化を当然視するような風潮がみられると言えるでしょう。
この“insecurity”への傾斜は、本当は、軍事にかかわる領域だけにみられるわけではありません。トニー・ジャットという歴史家は、「われわれはinsecurityの時代に突入した」と指摘しています(Judt, 2010=2010)。そこには、「経済不全」(economic insecurity)、「身体不全」(physical insecurity)、「政治不全」(political insecurity)があります。これらの“insecurity”は人々に恐怖の感情を呼び起こし、それが近代国家を支えてきた信頼と協力に基づく市民社会の基盤を侵食しているのです。
本書では、世界の潮流として現前している政治の機能不全を第1章で、経済の機能不全を第2章で取り上げたいと思います。いわゆる「グローバリゼーション」のもとでは、日本を語るには世界全体の動きを知らなければなりません。そこで、2章分を使って、19世紀から21世紀にかけての世界情勢を俯瞰してみたいと思います。
第3章では、日本の機能不全について考察します。日本の国民も政府も世界の潮流に翻弄されながら、大変に厳しい状況に置かれています。その現実を知らなければ、それへの対処方法も見出せません。そこで、ここでは第1、第2章での分析に基づきながら、いまの日本の機能不全について政治や経済の問題を中心に論じてみたいと思います。
第4章では、日本の機能不全への処方箋を考えてみます。そこで役に立つのが19世紀を生きた坂本龍馬にあります。時代の変化に敏感だった龍馬に倣って、「21世紀龍馬」としていまの時代をながめてみることで、新しいニッポンに向けた展望が拓けるのではないでしょうか。
奇しくも、わたしは2017年に「21世紀龍馬会」を創設しました(http://21cryomakai.com)。その代表を務めています。どうか、「21世紀龍馬」の志をいだきつつ、日本を洗濯しようではありませんか。
2018年春
塩原 俊彦
はじめに
目次
第1章 世界の潮流 政治不全
1. 民主主義の機能不全
2. 官僚の機能不全
3. マスメディアの機能不全
第2章 世界の潮流 経済不全
1. 市場経済の機能不全
2. 中央銀行の機能不全
3. 経済学の機能不全
第3章 日本不全
1. 「民」への無理解
2. 「官」の正体
3. 政治家の劣化
4. ジャーナリストの衰退
5. 「21世紀龍馬」の必要性
第4章 日本不全への処方箋
1. 「クレプトクラート」を成敗せよ
2. 「フィデュシャリー」の時代へ
3. 「21世紀龍馬」にとっての「新国家」とは
参考文献
[参考文献]
Arendt, Hannah (1970→1972) “On Violence,” in Crises of the Republic, A Harvest Book.
- (1958) “The Modern Concept of History,” The Review of Politics, Vol. 20, No. 4, in Between Past and Future: Eight Exercises in Political Thought (1968) Viking Press =引田達也・斎藤純一訳 (2002)『過去と未来の間:政治思想への8試論』みすず書房.
Baudrillard, J. (1991) La Transparence du Mal, Éditions Galilée=(1991) 塚原史訳 『透きとおった悪』紀伊国屋書店.
Bell, Daniel (1991=2015) “Socialism and Planning: Beyond the Soviet Economic Crisis”, Why Market Socialism?, first published 1994 by M.E. Sharpe, published 2015 by Routledge.
- (1976) The Cultural Contradiction of Capitalism, Basic Books.
Benjamin, Walter, B. S. (1921) Zur Kritik der Gewalt (Critique of Violence)=(1994) 野村修編訳『暴力批判論』岩波文庫.
Boyer, R. (2004) Une théorie du capitalisme est-elle possible?, Odile Jacob=(2005) 山田鋭夫訳、『資本主義vs資本主義』藤原書店.
藤井友紀 (2003) 「ボードリヤールと他者性」『立命館産業社会論集』第38巻第4号.
Fung, Ben S. C. & Halaburda, Hanna (2016) Central Bank Digital Currencies: A Framework for Assessing Why and How, Bank of Canada Staff Discussion Paper 2016-22.
Hayek, F. A. (1978) Denationalisation of Money-The Argument Refined. An Analysis of the Theory and Practice of Concurrent Currencies, Second Edition=川口慎二訳 (1988)『貨幣発行自由化論』東洋経済新報社.
Herman, Edward S. & Chomsky, Noam (1988) Manufacturing Consent: The Political Economy of the Mass Media, Pantheon Books.
樋口範雄 (1999) 『フィデュシャリー[信認]の時代』有斐閣.
Hill, Lisa (2012) “Ideas of Corruption in the Eighteenth Century: The competing conceptions of Adam Ferguson and Adam Smith,” Corruption Expanding the focus, Edited by Marcham, Manuhuia, Hindess, Barry and Larmour, Peter, Australian National University.
市野川容孝 (2011) 「安全性の論理と人権」『人権の再問』法律文化社.
井上達夫 (2012) 『世界正義論』筑摩書房.
石丸博 (1994) 「官僚制の組織原理」『組織とネットワークの社会学』宮本孝二・森下伸也・君塚大学編, 新曜社.
伊藤正博 (2003) 「ハンナ・アーレントが言わなかったこと」『芸術』(26), 大阪芸術大学.
Jaynes, Julian (1976, 1990) The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind=柴田裕之訳(2005) 『神々の沈黙: 意識の誕生と文明の興亡』紀伊國屋書店.
Judt, Tony (2010) Ill Fares the Land, The Penguin Press=森本醇訳 (2010)『荒廃する世界のなかで:これからの「社会民主主義」を語ろう』みすず書房.
柄谷行人 (2014) 『帝国の構造』青土社.
- (2010) 『世界史の構造』岩波書店.
- (1993) 『ヒューモアとしての唯物論』筑摩書房.
- (1989) 『探究Ⅱ』講談社.
Karatani, Kojin (2014) The Structure of World History: From Mode of Production to Modes of Exchange, translated by Bourdaghs, Michael K., Duke University Press.
Клейнер, Г. (2004) “Наноэкономика, ”Вопросы экономики, No. 12.
Клейнер, Г., Д. Петросян, & А. Беченов (2004) “Еще раз о роли государственного сектора в зкономике,” Вопросы зкономики, No. 4.
Ленин, В. И. (1917=1967) Ленин В. И. Полное собрание, 5-е изд.=(2015) 『国家と革命』角田安正訳, 講談社学術文庫.
真木悠介・大澤真幸 (2014) 『現代社会の存立構造/『現代社会の存立構造』を読む』朝日出版社.
松本智治 (2012) 「ハンナ・アーレントにおける「はじまり」の概念(2)」『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』No. 13.
Mesoudi, Alex (2011) Cultural Evolution: How Darwinian Theory Can Explain Human Culture and Synthesize the Social Sciences, The University of Chicago Press=(2016) 『文化進化論:ターウィン進化論は文化を説明できるか』野中香方子・竹澤正哲訳, NTT出版.
中村雄二郎 (1993) 『中村雄二郎著作集第Ⅱ巻 制度論』岩波書店.
中里実 (2004) 「法・言語・貨幣:ソフト・ローの観点からの研究ノート」『金融研究』日本銀行金融研究所.
- (2002) 『タックス・シェルター』有斐閣.
Neumann, Sigmund (1942) Permanent Revolution, The Total State in a World at War=(1998) 『大衆国家と独裁:恒久の革命』岩永健吉郎, 岡義達, 高木誠訳, みすず書房.
『日本国語大辞典』(2000)小学館, 第2版.
荻野美穂 (1994) 『生殖の政治学:フェミニズムとバース・コントロール』山川出版社.
大西康之 (2017) 『東芝解体 電気メーカーが消える日』講談社現代新書.
Piketty, Thomas (2013) Le Capital au XXIe siècle, Seuil = (2014) Capital in the Twenty-First Century, translated from the French by Arthur Goldhammer, Belknap Press/Harvard University Press.
Radzinsky, Edvard (1996) Stalin: The First In-Depth Biography based on Explosive New Documents from Russia’s Secret Archives=(1996) 『赤いツァーリ:スターリン、封印された生涯 上, 下』工藤精一郎訳, 日本放送出版協会.
Rogoff, Kenneth S. (2016) The Curse of Cash: with a New Afterword by the Author, Princeton University Press.
Rossi, Ivana M., Pop, Laura, & Berger, Tammar (2017) Getting the Full Picture on Public Officials: A How-To Guide for Effective Financial Disclosure, World Bank/UNODC.
佐伯啓思 (2005) 『倫理としてのナショナリズム』NTT出版.
塩原俊彦 (2017) 『ロシア革命100年の教訓』Kindle版.
- (2016a) 『官僚の世界史』社会評論社.
- (2016b) 『民意と政治の断絶はなぜ起きた:官僚支配の民主主義』ポプラ社.
- (2015) 『ウクライナ2.0:地政学・通貨・ロビイスト』社会評論社.
- (2003) 『ビジネス・エシックス』講談社現代新書.
Троцкий, Л. (1936) Что такое С.С.С.Р. и куда он идет?=(2014) 『裏切られた革命』藤井一行訳, 岩波文庫.
上山春平 (1985) 『天皇制の深層』朝日選書.
王雲海 (1998) 『賄賂の刑事規制:中国・米国・日本の比較研究』日本評論社.
Weber, Max (1922) “Die Typen der Herrschaft, ” Wirtschaft und Gesellschaft=(1970) 『支配の諸類型』世良晃志郎訳、創文社.
山本理顕 (2015) 『権力の空間/空間の権力:個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ』講談社.
Zupančič, Alenka (2000) Ethics of the Real: Kant and Lacan, Verso=(2003) 冨樫剛訳『リアルの倫理:カントとラカン』河出書房新社.
最近のコメント