深く考えるということ:J・D・ヴァンスに刺激されてルネ・ジラールとカール・シュミットについて考察した

以前、大学生に対して、深く考えることの大切さを何度も説いてきた。そのための訓練として、もっとも効果があったのは「作文作成」によって、自分の考えをまとめるという過程を何度も繰り返す作業だったと思う。

だが、残念ながら、日本の教育制度がお粗末なためか、こうした作業を通じて、深く考えることを実践していると思わせる人がほとんどいない。

そこで、たったいま、深く考えるという作業によって「知られざる地政学 連載【48】」を書き終えたので、この作業の経過を書きながら、深く考えるという作業がどんなものなのかを具体的に示してみたい。

 

「勉強しろ!」

このタイトルは、「地政学のための思想分析:J・D・ヴァンスを理解するためのルネ・ジラール、カール・シュミット考」である。この連載は、おそらく7月27日ころに「上」が公表されることになるだろう。本当は、こちらを読んでから、この一文を読むほうがわかりやすいかもしれないが、逆であっても、連載を興味津々で読み進められるのではないか。

まず、7月15日にトランプ大統領候補と伴走する副大統領候補となったヴァンスについてたくさんの情報を集めることが必要になる。高校卒業後、4年間、海兵隊に属し、奨学金を得て、大学、大学院へと進学したことなど、基本的な情報を収集することはヴァンス理解の大前提だ。

そんな作業を誠実に行ってみると、The Economistの記事のなかに、「ヴァンス氏はフランスの哲学者ルネ・ジラールへの感謝から、2019年にカトリックに改宗した」と書かれていることに気づくだろう。これによって、ヴァンスとジラールが宗教という重大問題において交差していることがわかる。つまり、ヴァンスを深いところで理解するには、ジラールの思想を知らなければならないことになる。

他方で、NYTのオピニオン・コラムニスト、ロス・ダウサットとヴァンスとのインタビューを読めば、ヴァンスとカール・シュミットとの退っ引きならない関係に気づくことができるだろう。

わかってほしいのは、誠実にしっかりと勉強しなければ、ここで紹介した「師玉の情報」を探り当てられないということだ。7月19日のシンポジウムで下斗米伸夫法政大学名誉教授はヴァンスにふれていたが、私には、「勉強が足りない」という印象しか残らなかった。彼の名誉のために書いておくと、ざっと検索したかぎり、ヴァンスとジラールおよびシュミットについて真正面から考察した論考は世界にないから、どうやら世界中の大多数の者は私ほどに深く考察するまでに至っていないようにみえる。

 

過去の蓄積

「知られざる地政学 連載【48】」の原稿にも書いておいたが、実は、私が過去に上梓した本のなかには、ジラールやシュミットとへの言及が多い。だからこそ、ヴァンスとジラール、ヴァンスとシュミットについて深く考えてみようと思ったわけである。

つまり、勉強をしっかり継続すれば、その勉強によって貴重な情報を蓄積することができ、新たな課題について考えるに際して、大いに役立つのだ。だからこそ、誠実に継続して勉強しなければならない。私がThe Economistを40年以上、定期購読してきたと自慢しているのは、この辛抱強い努力、誠実さこそ何よりも大切だと思うからだ(ただし、いま現在書き進めている原稿では、こうした「知」への大いなる疑義について考えている)。

 

生け贄(犠牲)問題

ジラールを研究すると、当然、生け贄(犠牲)について考えざるをえない。拙著『復讐としてのウクライナ戦争』において、ジラールを取り上げたのもこのためだ。このジラールの思想は、最終的に、「私たちは隣人と向き合い、無条件の平和を宣言しなければならない。たとえ挑発されても、挑発されても、私たちはきっぱりと暴力を放棄しなければならない」という結論に達する。

この困難から抜け出す唯一の方法は、イエスを模倣モデルとする「イミタチオ・クリスティ」(Imitatio Christi)、すなわち、「キリストにならいて」であるということになる。これは、無償の贈与行為を意味する「純粋贈与」をなしたキリストに倣えということだ。別言すると、「私たちは赦さなければならない!」のである。

ジラールの思想は、キリスト教神学によって歪められてしまったキリストによる純粋贈与を取り戻せというものなのだ。それにもかかわらず、ジラールがカトリック教徒になり、ヴァンスもカトリックを信じるようになったのはなぜか。このあたりの事情については、「知られざる地政学 連載【48】」では考察していない。関心のある者は、どうかよく勉強し、博士号取得論文くらい書いてほしいと思う。

 

ホモ・サケルと主権問題

実は、この生け贄(犠牲)問題は「ホモ・サケル」問題に直結している。この問題は、「境界状態」をどう法的に位置づけるべきか、という西洋における大問題を惹起する。そこに、カール・シュミットの主張が絡むという構図になる。

こうして、ヴァンスを介して、ジラールとシュミットを考えると、それは西洋のかかえている文明史観へとつながっていることに気づくだろう。

これこそ、深く考えるということの実践であり、醍醐味なのだ。

だが、残念ながら、日本人の大多数は不誠実であり、勉強家でもないと指摘せざるをえない。深刻なのは、自分が無知蒙昧であることに気づかぬまま、テレビや新聞で、あるいはシンポジウムの場で、いい加減な言説を流しつづけている輩ばかりであることだ。

どうか、心ある人は、自分の無知に気づいて、勉強をしてほしい。そして、ときどき、その勉強の成果を「作文」や「論文」にしてほしい。その過程で、また多くを考えることにつながり、思考回路がより錯綜とした堅固なものになるだろう。

 

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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