最近とくに痛感する『ニッポン不全』

手元に、2018年2月に書き留めた「日本不全」(Japanese Insecurity)という拙稿があります。本当は、新書くらいにはすぐになるものですが、まだ出版にはこぎつけていません。なぜいま、この話をしようと思ったかというと、いまの日本はまさに絶望的な「不全」状態にあると思い当たったからです。

 

この原稿の「はじめに」の部分を紹介してみましょう。

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 「セキュリティ」(security)という言葉は、ラテン語の“securus”(形容詞)ないし“securitas”(名詞)を語源とし、これらは欠如を意味する“se”(~がない)という接頭辞と、気遣いを意味する“cura”の合成からなっています。これらのラテン語は、エピクロスらが人間の到達すべき理想としたギリシャ語の「アクラシア」(合成語で「心が乱されていない状態」を意味する)の訳語・対応語として用いられたものでもあります。つまり、「気遣いのない状態」こそを「セキュリティ」なのです。

他方、「安全」という日本語は、かなり古くから、たとえば『平家物語』第三巻の「医師問答」で「願はくは子孫繁栄絶えずして(……)天下の安全を得しめ給へ」という形で用いられており、その意味も今日と同様、危険のないこと、平穏無事なこと、であるのです(『日本国語大辞典』)。しかし、この「安全」という言葉は当初、英語のsecurityの訳語としては用いられず、これには「安心」「安穏」などがあてがわれる一方、safetyの訳語として用いられました(ヘボン『和英語林集成』, 1867年)。市野川容孝の調べでは、1884年の『明治英和辞典』で初めて(safetyと同時に)securityの訳語として「安全」が登場しました。Safetyとsecurityの両方に対応できるドイル語のSicherheitに対しては、すでに1872年の『和訳独逸辞典』で「安全」という訳語があてられているということです。

 この“security”を接頭辞“in”で否定したのが“insecurity”です。すなわち、「気遣いのない状態の否定」を表すわけですから、「不安定な状態」や「不安(感)」を意味していることになります。21世紀に入って、世界中にこの“insecurity”が広がり、まさに「気遣いのない状態の不在」が懸念されています。こうした時代のムードをつくり出しているのは、2001年9月11日以降のテロリズムへの「恐怖」でしょう。主権国家の常備軍たる武力だけでなく、少数の反動勢力による暴力にも気遣いする必要性が痛感されたところに“security”の重要性が高まったと考えられます。気遣いと安全の関係に着目すると、「気遣いがあるから危険が立ち現れるのであり、また、危険が見出されるから、それへの気遣いが求められる」ということになります。別言すると、安全を脅かす危険に対して、それを除去・否定する気遣いを想定すればするほど、その気遣いは“security”の強化を促しますが、その気遣いの対象は「無限」に想定できるわけですから、“security”の強化も際限なくつづきます。気遣いを再帰的に繰り返し継続することがもはや停止できないほどに“security”の強化を当然視するような風潮がみられると言えるでしょう。

 この“insecurity”への傾斜は、本当は、軍事にかかわる領域だけにみられるわけではありません。トニー・ジャットという歴史家は、「われわれはinsecurityの時代に突入した」と指摘しています(Judt, 2010=2010)。そこには、「経済不全」(economic insecurity)、「身体不全」(physical insecurity)、「政治不全」(political insecurity)があります。これらの“insecurity”は人々に恐怖の感情を呼び起こし、それが近代国家を支えてきた信頼と協力に基づく市民社会の基盤を侵食しているのです。

 本書では、世界の潮流として現前している政治の機能不全を第1章で、経済の機能不全を第2章で取り上げたいと思います。いわゆる「グローバリゼーション」のもとでは、日本を語るには世界全体の動きを知らなければなりません。そこで、2章分を使って、19世紀から21世紀にかけての世界情勢を俯瞰してみたいと思います。

 第3章では、日本の機能不全について考察します。日本の国民も政府も世界の潮流に翻弄されながら、大変に厳しい状況に置かれています。その現実を知らなければ、それへの対処方法も見出せません。そこで、ここでは第1、第2章での分析に基づきながら、いまの日本の機能不全について政治や経済の問題を中心に論じてみたいと思います。

 第4章では、日本の機能不全への処方箋を考えてみます。そこで役に立つのが19世紀を生きた坂本龍馬です。時代の変化に敏感だった龍馬に倣って、「21世紀龍馬」としていまの時代をながめてみることで、新しいニッポンに向けた展望が拓けるのではないでしょうか。

 奇しくも、わたしは2017年に「21世紀龍馬会」を創設しました(http://21cryomakai.com)。その代表を務めています。どうか、「21世紀龍馬」の志をいだきつつ、日本を洗濯しようではありませんか。

 

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統治について

人類は、ムラのような小さな共同体から国家にいたる大きな共同体にまで統治システムを構築することでsecurityについて気遣ってきました。その方法として、暴力や宗教を用いたり、「法の支配」を使ったりしてきたわけです。

いわゆる「近代化」という時代を経て、いま、わたしたちが受けいれている主権国家に基づく統治システムがあるわけです。とはいえ、過去の残滓として、宗教による統治や暴力による威嚇といった統治がいまでもしっかりとあります。ただ、そうした過去の統治システムをも各国の「法の支配」のもとにねじ伏せられている現状にあります。

こうした統治システムの変遷という歴史を学ぶことで、わたしたちはいまの統治システムが決して絶対的で不変であるわけではないことを知ります。とくに、技術の進化にともなって、統治システム自体が揺さぶられる事実を歴史は教えてくれています。

だからこそ、21世紀における統治システムは18世紀から20世紀に主流であった近代的統治システムとは異なる可能性が大いにあることになります。

 

 合法的暴力装置

近代国家は、警察、軍、諜報機関などの暴力装置を国家のもとに置くことで「合法的暴力装置」としました。のみならず、一部は「法の支配」から隠すかたちで既存の為政者による支配のために利用されるようになります。その典型はスターリンが利用した「チェーカー」と呼ばれる「秘密警察」のような機関でしょう。

検察は裁判所に刑事犯罪を提起する権限をもっています。日本の場合、この起訴権限を検察が独占しています。ロシアの場合、検察のほかに、予審委員会、連邦保安局(FSB)などにも起訴する権限が認められています。

独占的な起訴権をもつだけ、日本の検察機関はこの暴力装置として重要な役割を果たしていると言えるでしょう。

 

  Dishonest Abeのもとで腐敗した「特捜」

昔、新聞記者だったころに聞いた話のなかで、いくつか頭に刻み込んでいる大切な話があります。その一つが、「日本の警察はまったく腐敗しているが、特捜だけは違う」というものでした。これが意味しているのは、日本の各自治体にある警察は、地元の政治家や地方公務員とズブズブの関係にあり、捜査の機密がまったく守られていない半面、検察のなかの特別捜査部(特捜)だけが何とか捜査の機密を厳守しているということでした。

これは、道州制が話題になった1990年ころに聞いた話ですから、現在とはまったく違います。当時、州に安全保障権限をもたせると、地方は地方政治家と地方公務員の結託による腐敗が蔓延するので、その場合には、米連邦捜査局(FBI)のようなものの設置が不可欠になるというものでした。

ところが、Dishonest Abeのもとで、唯一の牙城であった特捜も政治家を忖度するようになり、すでにDishonest Abeの軍門にくだっています。2016年5月、東京地検特捜部は甘利明・前経済再生担当相をめぐる現金授受問題で、斡旋利得処罰法違反罪で告発されていた甘利氏と元秘書2人を不起訴処分にしました。もうこのときから、特捜はDishonest Abeに従属するようになったと言えるでしょう。

その後、森友・加計・桜事件でも、特捜を含めた検察庁全体がもはや腐敗しきっていることがはっきりしました。Dishonest Abeに屈してきたわけです。

 

 ロシア化する日本

こんな状態がつづくとどうなるかと言えば、それはロシア化することになると断言できます。このサイトの「「裁かれざるは悪人のみ」」(https://www.21cryomakai.com/%e9%9b%91%e6%84%9f/779/)で紹介したように、むしろDishonest Abeを批判する善人が起訴され、言論弾圧を受ける時代が到来することになるでしょう。

 

 マスメディアは猛省せよ

Dishonest Abeのひどさ、検察の悪辣さを今回の黒川弘務・東京高検検事長の辞任に至る経緯は示しています。これに関連して、マスメディアの問題点についても指摘しておきましょう。

それはマスメディアの検察依存による腐敗の問題です。朝日新聞記者時代に聞いた話で驚いたことがあります。それは、新入社員が配属される地方において、地方検事の家に日参し、検事と仲良くなった者が称賛され、それが記者としての出世につながっているという話です。これも20年以上、昔の話ですから、いまとは違うと思いますが、以前から取材対象と癒着して「何かありませんか」と尋ねて教えてもらうというやり方が重要な取材方法としてありました。「相手の懐に飛び込む」ことで、真実に近づくといった手法が当たり前のこととして正当化されていたわけですね。

わたしはこんな手法はとりませんでした。自分の知見を相手にぶつけて反応をみるというやり方でした。そのためには、さまざまな書籍や学術論文、そしてThe Economistを読むことで、むしろ取材先に「教えてやる」というのがわたしの取材の基本姿勢でした。はっきり言えば、相手が政治家であろうと、学者であろうと、わたしのほうがずっと「博識」であると「過度の自信」にあふれていたと言ってもいいかもしれません。

このくらいの矜持をもって、取材先としっかり渡り合う姿勢があったからこそ、ワンマン経営者として名をはせた宮崎輝でさえ、わたしの話を聞きながらメモをとっていたのです(詳しくは論座に掲載された拙稿「ノーベル受賞 吉野彰さんを育んだ旭化成:元会長・故宮崎輝さんが教える教訓」[https://webronza.asahi.com/national/articles/2019102500008.html]を参照)。ところが、いま頻繁にテレビに登場し、Dishonest Abeにべったりの時事通信社出身の田崎史郎は「相手の懐に飛び込む」取材をしてきたと公言しています。こんな取材手法をとってきたからこそ、Dishonest Abeに取り込まれているのだと指摘せざるをえません。

いい加減に、日本のマスメディアも専門の知識にたけた人物をどんどん記者として採用して、彼らの知見に基づいて、中立的立場から、しっかりした記事を提供する体制を構築すべきでしょう。

 

「クリミナル・マインド」が教えてくれること

余談ですが、ここで「クリミナル・マインド」の話をしておきましょう。非常事態宣言の出されたなかで、多少なりとも暇なとき、わたしは米国の「クリミナル・マインド」というテレビ映画シリーズをずっと見てきました。全12シリーズもあるのですが、実に興味深い点がいくつもあります。

その一つが、FBIの行動分析課においては、プロファイリングに優れた人物を多方面から集めているということです。基本は、FBI内部からの採用ですが、一度FBIを去っても、優れた人物であれば、採用する。大学で教えているような人物であっても、その道のプロと認められれば、登用するのです。

優れた記事を提供したいのであれば、取材先と同様、ないし、それ以上の専門的知識を身につけた記者が取材するほうがむしろ望ましいのです。少なくとも「教えてもらう」といった迎合的な取材では、相手の術中にはまってしまうだけですから。

 

「海=砂漠」に出よ

最後に、『ニッポン不全』の拙稿の一部を紹介します。21世紀を担う若者たちになにをすべきかを考えてもらうヒントを提供しましょう。よく熟読玩味してみてください。

「21世紀龍馬」には、「船乗り=商人」をめざしてもらいたいと心から願っています。

 

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 官僚と独我論

 官僚の機能不全の背後には、その実力に明らかな陰りがみえはじめていることがあげられます。官僚制は本来、実力主義(meritocracy)を体現するために導入されたものです。縁故主義や血統主義による無能な人物では、その国の安全保障上、障害になることがわかってきたからです。その能力を見極めるために、試験が行われ、その結果に基づいて官僚が選抜されます。

 近代国家を支える近代的官僚制は、選抜によって任官された官僚のエリート意識を醸成します。この現象は、同じ共同体に内属する個としての人間に言えることが万人にもあてはまると安直に類推したうえで、そのなかで選抜に勝利したり、規律をよく守ったりできる者はそうでない者に比べて優秀であり、指導者として権威や権力をふるうことが当然であるとみなす見方を前提としていることになります。あるいは、同質を前提とする者だけからなる共同体で、選抜を潜り抜け、規律を遵守する者だけがエリートとしてその同質的共同体を指導することを受けいれるべきであるとみなすようになるのです。中国では、この思想こそ朱子学を支えていた思想であり、だからこそ科挙が比較的早くから整備されることになったわけです。しかし、こうした考え方はいわゆる「独我論」であり、この独我論のもとにあるからこそ、官僚の独善的なエリート意識も生まれることになるのです。

 この独我論を脱するには、共同体を前提とする類のなかの個をみるのではなく、つまり、一般性と特殊性、類と個を対とみなすのではなく、共同体に属さない単独性と普遍性を対とする見方、つまり単独者と、共同体を越え、時間をも超えている空間としての社会を対とみなす見方への転換を促すことが必要になるのではないでしょうか。といっても、この主張はわたしのものではありません。柄谷行人が『探究Ⅱ』のなかで示した卓見です。この本のなかで、かれは社会的な交換と共同体的な交換を区別しました。共同体内の交換は、互酬性の原理に基づく贈与と返礼を基本としており、それは厳然といまでも存続している。しかし、その互酬は共同体が自閉的な自律性を確保するために作り出してきたさまざまの制度のなかで変容してきたというのです。その変容を各共同体は多様な歴史として物語化する。しかし、それはあくまで同質の共同体を前提につくられた、共同体ごとに異なった独我論に基づく虚妄にしかすぎません。

 この虚妄のインチキさを暴露するためには、独我論を育んできた人間の歴史に立ち返るしかありません。そこでは、単独者に立ち返ることが求められます。そのためには、共同体と共同体との間としての「海=砂漠」に出る努力が必要となります。それをわかりやすく説明してみましょう(柄谷1989)。

 農夫は共同体の内部に属する者として、自然を相手に立ち向かいそれを支配しようとしてきました。自然を動かせない場合には、魔術によって人間を動かすことで共同体内の矛盾を解消してきたのです。この魔術は共同体内の人間を拘束する共同幻想としての役割を果たします。共同体の外部では、その魔術は通用しない。この構図は、近代化後の近代国家にもあてはまります。普遍的な理性とみなされているものの力も近代国家の具体的な諸制度のもとでしか働かないのです。つまり、近代合理主義そのものが魔術であり、それが力をもつのは近代国家の諸制度の内部においてのみということになる。これに対して、船乗り=商人は共同体間の空間である海=砂漠を交通する者としてあります。船乗りは、ほかに何一つ頼るもののない海上で星空を眺め、一見してたえず変動する多様な星たちのなかに不変の構造を見出します。商人は相手の合意なしには何もできないから、共同体の外部で見知らぬ予測しがたい不可解な他者を相手にし、かつかれを排除するこのではなく、かれの自由を受けいれることでかれを拘束するのです。

 船乗り=商人の立場からみると、官僚のもつエリート意識は単に近代合理主義を前提とする共同体で生まれた共同幻想にすぎないことになります。さらに、民主主義も同じなのです。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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