今夏読んだ本について

今夏読んだ本について

このサイトで多くの本を読むことを推奨しました。ここでは、わたし自身はどんな本を今夏に読んだかを紹介してみたいと思います。自分の手で選んだものもあれば、贈呈されたものもあります。『潮』に書評を書くように頼まれて、読んだ本もあります。

まず、書評用に書いたものを紹介しましょう。『潮』用に書いた書評2本のうちの1篇です。もう1篇は採用されて10月号に掲載されますから、ここでは不採用になったものを紹介しましょう。

 

  • 加藤聖文著『満鉄全史:「国策会社」の全貌』(講談社学術文庫、2019年) (縦書き用に認めたので、そのまま紹介します)

鉄道は近代化を象徴するネットワークである。とくに、「南満州鉄道」(満鉄)は「国策会社」であり、その歴史を知ることは日本の植民地政策はもちろん、政官軍の無責任体質の淵源を教えてくれる。それだけではない。「国家戦略特区」などと名づけられた国家主導のトップダウンによる現代の政策が「いかがわしさ」を内包しかねない現実に気づかせてくれる。

満鉄は鉄道附属地内での土木・教育・衛生にかかわる行政権を得ていた。そのために、附属地内の住民から必要な費用を徴収することもできた。この附属地はもともと、ロシアが東清鉄道を敷設した際に鉄道路線に付属するものとして清国に認めさせたものだ。駅周辺の数キロ四方を附属地とすることで、事実上の租界のような箇所もあった。その東清鉄道南部支線の日本への譲渡が一九〇五年のポーツマス条約で決まり、一般行政と警察は関東都督府が、土木・教育・衛生関係の行政については満鉄が担ったのである。つまり、満鉄は単なる企業ではなく行政機関でもあった。しかも、附属地には鉄道守備隊という軍隊も置かれた。その指揮権は関東都督が握った。この関東都督府の軍事部門が一九一九年に分離されてできたのが悪名高い関東軍なのである。

満鉄初代総裁は台湾総督だった後藤新平だ。児玉源太郎の説得で総裁になったのだ。第二代総裁中村是公は、友人の夏目漱石を韓国・満州に招いている。満鉄・関東都督府・外務省の利害が錯綜するなかで、徐々に軍部が力をもち、張作霖爆殺事件、柳条湖事件、満州国成立といった泥沼へ満鉄も巻き込まれてゆく。満鉄理事・副総裁だった松岡洋右は一九三五年に第十四代総裁に就く。松岡の姻戚、岸信介は満州国産業部次長として日産の満州移住を画策した。

鉄道は地上に大きな「裂け目」を引き起こす覇権争奪の原因だ。中国の習近平総書記が提唱する「一帯一路」のもと、中央アジア経由でヨーロッパに向かう鉄道やユーラシアをまたぐ石油や天然ガスのパイプライン網も満鉄の歴史と無縁とは言えまい。

 

この本は歴史を知ることの大切さを教えてくれます。テレビに登場して「毒」を撒き散らしているコメンテーターといった連中の無能、鉄面皮を思い知ることになるでしょう。そんな時間があれば、わたしたちはもっと歴史に学ばなければいけないのです。

その意味で、つぎの本はなかなか興味深いものでした。例によって、わたしがラインマーカーを引いた部分のいくつかを紹介しましょう。

 

●塚本青史著『玄宗皇帝』(潮出版社、2019年)

p.172

「一時は唐の倭国侵攻まで噂されたが、唐と新羅との関係が悪化したため、日本は難を逃れている。そして、弁正がやって来たのは、長安2年(702年=大宝2年)の、第八回遣唐使の留学僧としてであった。

そう言えばこの頃から、中国(唐)が倭国を日本と呼ぶようになったのである。」

 

p. 180-181

「唐においても、名門という発想はあった。

以前にも触れたが「恩蔭系」なる官僚がいるのは、その考え方を如実に示している。

隋と唐においては山東系(崔氏、盧氏、鄭氏)が上位で隴関系(隴西や関中出身の独孤氏、竇氏、長孫氏、武氏など)を下位にみる傾向があった。

これを入れ替えたのが太宗で、彼は『氏族志』を編纂して李氏、独孤氏、竇氏、長孫氏の順位(皇帝と外戚を上位に置いた)とし、隴関系の優位を確立した。

だが、それをも根底から覆してしまった人物がいた。則天武后である。

彼女は、自らの氏が隴関系の下位にあることから、来俊臣に代表される酷吏を使って、李氏を排除した。そのうえで、武氏以外の官僚は科挙系の人材から登用した。」

 

p. 198-199

「事実、唐の兵制である府兵制は、均田制(農民に等しく土地を分け与える制度)に基礎がある。運悪く、蝗害や旱魃で収穫がなかった農民は、借金して翌年を期する。

もっとも、半数以上は借金を返すに至らず、土地を新興地主に吸収されて客戸(小作農)に転落する。いや、客戸にでもなれば良い方で、逃戸(浮浪人)になって社会不安の元になっていく方が多かった。」

p. 299

「総ての儀式を終えた後、一行は曲阜にある孔子の旧宅を訪れた。封禅の儀式は内容的には道家思想であり、儀式全般は儒家思想である。一般的な道徳も儒家思想であることから、儒家の総元締めともいえる孔子に敬意を表したことになる。

唐の姓「李」は、李耳(老子)を祖と仰ぐ。それゆえ皇帝隆基も道教に親しんでいた。仏教を少々疎んじたのは、則天武后が仏教を利用して一旦、唐を滅ぼしたことによる。」

 

p. 255

「「よくぞ、仰せ下さいました。白村江は、もう67年も前のことですのに、まだ、その蟠りを何かにつけて言い募るのです」

彼が言うと、ここで一旦終結したかに思えた国境測量事件だったが、以降も何かつけて新羅から日本への突き上げがあった。日本側はその度に宋宰相(環)へ助けを求めたが、彼の口利きでも、収まるのは暫くだけだった。」

 

p. 308

「道教とは無為自然を説いた老子や荘子を元祖として、張道陵が体系化した宗教である。また、老子たる李耳には、唐朝(李氏)の源とした家系図が作られている。唐の皇族は鮮卑(古代アジアの遊牧民)の血筋であり、無論のこと偽造だ。」

 

p. 353

「唐軍が敗れた原因は、天山山麓の遊牧民カルル人の寝返りに拠るものらしい。

この戦いで唐軍は五万人が戦死し、二万人が捕虜になった。この中に紙漉工がいて、製紙技術が西へ伝わったとされる。」

 

つぎに紹介するのは、大澤真幸の作品です。

 

  • 大澤真幸著『社会学史』(講談社現代新書、2019年)

p. 49-50

「17世紀のグロティウス著『戦争と平和の法』⇒それによると、基本的な原理は二つある。一つは、人間には自己保存の自然権がある、ということ。自然権とは、法律に書いてなくても当然のようにもっている権利という意味です。もう一つの原理は、特に必要もないのに他人の生命・財産を侵害するな、ということ。この二つの原理です。つまり、これらは自然法であって、自然法の中でも最も重要だということです。」

 

p. 68

ロック⇒抵抗権=政府に納得がいかなければ、人々は文句を言っていい。それが抵抗権

「でも、ここで、「ロックはなるほどリベラルだな」などと簡単に考えてはなりません。いま述べたように、ホッブズ流に考えると、抵抗権の導入は、契約そのものの自己否定になってしまうわけで、社会契約説を破綻させるはずなのに、ロックの場合には、抵抗権を入れても政治社会の契約が破綻するとは考えなかった。なぜなのか。なぜロックだけが抵抗権付きになるのか、それにはきちんとした論理に則した理由があるのです。

どういうことかというと、ロックの理論は、「神付き」なのです。ここが重要なところです。つまり、ホッブズでは神に訴えるということは許されない。神の存在は前提にされていないのですから。しかし、ロックは神がいることが前提です。神のほうが政府よりも偉い。だから、(政府への)抵抗とは、究極的に言うと、神への訴えappeal to Heavenなのです。神の観点から見れば、お前の言っていることはおかしいではないか、というのが抵抗権です。この世の行いは、最終的には、全宇宙の裁判官にして立法者であるところの神の判決に従います。神の法への服従と違反は、それぞれ、最大の幸福と最大の不幸によって報いられる。とすれば、まったく利己的な動機からの抵抗などありえないのです。」

 

p. 109

「たとえば、コモン・センスの「コモン」という言葉は、中世においては、「卑俗な」とか「当たり前の」という、どちらかといえばよくない意味でした。それが、よい意味になるのが、近代です。「コモン(common)」すなわち「共通感覚」の「共通」というものが、真理の重要な指標となってくるという事情に即したことです。」

p. 114

「日本語で「人民」というと、人々の集合を指示するニュートラルな語か、あるいはどちらかというと勇ましい感じですが、people(の系列のヨーロッパの語)には、惨めで、不幸で、排除された者という含みがありました。」

p. 173

「近代社会(資本主義)と近代以前の伝統社会(マルクスの場合は「封建社会」)の違いはどこにあるのかというと、信仰の所在です。たとえば、伝統社会における領主とか主人とか王と、家臣たちとの関係。家臣たちは、王や主人に直接備わった属性としてカリスマや神性があると感じている。王権神授説であれば、王は、実際に神から何らかを授けられ特別であると見なしている。ここでは、信仰が、家臣たちの意識のレベルにあります。そして、こういう人たちにこそ、フォイエルバッハの批判があたるのです。「それ(王や主人のカリスマや神性)はあなたが勝手に投影しているだけだ」と批判しました。

これに対して近代社会は、先に述べたように、人々はすでにフォイエルバッハ的な認識をもっています。近代社会では、人々は、意識のレベルで否認したり、嘲笑したりしている神を、行動の水準で信じているのです。」

 

p. 174

「要約するとこうなります。前近代社会では、人は内面で信じている。これに対して、近代社会では、つまり価値形態論に表されているロジックでは、人は信じていないが、商品(もの)が勝手に信じているように見える。ものが信じているというのは一種の比喩ですけれども、信仰のレベルが百パーセント無意識のレベルに移行していると、状況がそのようにたち現れるのです。」

p. 199

「人工知能とか認知科学の領域で「記号接地問題(symbol grounding problem)」と言われる難問があります。もともとは技術的なことがらですが、しかし、普遍的な問題にかかわって」

 

p. 200

「います。去勢コンプレックスをこの問題と関連づけて解釈してみます。」

 

p. 204

「このように、記号接地問題を解決するには、意味のないシニフィアンが機能しなければなりません。これをラカンは「シニフィエなきシニフィアン」と呼んだ。

結論的に言うと、去勢コンプレックスのポイントは――去勢とかペニスというと毒々しい話になりますが――、記号が機能するための論理的な条件を指しているのです。つまり、記号のシステムが動くためには、システムの中に何カ所か、最低一カ所、シニフィエなきシニフィアンがなければならない……抽象的に言えばそういうことを指しているのが、去勢コンプレックスです。」

 

p. 220

「無意識というと、「心の中に隠された秘密の箱があって、そこで本人も知らないうちにいろいろなことが起きている」というイメージをもたれるかもしれませんが、それはこの概念にとって適切ではない。もし無意識を、いわば現象学的に定義するとこうなります。「それ」の存在論的な位置が、通常の思考のそれではないような思考、その存在論的な位置が個体の外にある(かのように現れる)思考、と。普通の思考、意識的な思考については、私の心の中で展開しているという自覚を私はもちます。しかし、無意識は違う。私の思考なのに私の外で生起しているように感じされてしまう。それが無意識という現象です。

「無意識」というものをこのように考えると、無意識の発見は「社会の発見」に限りなくちかい、といえます。つまり、お前が考えているのではないが、お前の思考というものがある、とする。では、いったい誰が考えているのか、というと、社会です。「無意識の発見」という個人の心にかかわる現象と、「社会の発見」という社会学的現象は、対極的に見えますが、実は非常に近い出来事であるといってもよいのです。」

 

p. 244

デュルケーム著『宗教生活の原初形態』

「まず、宗教を明確に定義している。その部分を引用します。宗教とは、神聖として分離され禁止された事物と関連する信念と行事との全体的なシステムであり、教会と呼ばれる同一の道徳的共同体に、これに帰依するすべての人を結合させる。

この定義によると、宗教を構成しているのは二つの要素です。第一に、聖なるもの。これに信念と行事が関係する。第二に、連帯。キリスト教に即して言えば、それは、教会です。デュルケームは、これら二つを独立のものとは見なしておらず、むしろ、表裏一体の関係にあると考えています。

では、最も原始的な宗教は何か。彼が、他の人類学者の説を引き、批判しながら、導き出した結論は、トーテミズムです。」

 

p. 260

「議論の基本はこういうことです。ジンメルの社会学の重要な用語をひとつだぇ取り出すとすれば、「相互行為(英interaction)です。そして、相互行為には必ず内容と形式があるということが、ジンメルの着眼点です。」

 

p. 282

「簡単に言うと、神がふつうの人格に体現されるものから貨幣という物象に変わったときに、貨幣のほうが自由だと言うのがジンメル。それに対して、お前は自由になったつもりかもしれないが、貨幣に拝跪している以上は神に従っているのと同じだぞ、というのがマルクスです。」

 

p. 320

合理性(Ratio)の原義について  英語で言えばrational。この語はラテン語のratioから来ています。「理性」という意味ですが、本来の意味は「比」です。つまり、合理性という問題は「数」、とりわけ「自然数」と関係があるのです。⇒p. 321 「割り切れた」感がぐり的ということのポイント

 

p. 332-333

「職業を天職と見る思想は、マルティン・ルター(Martin Luther, 1483-1546)に始まる、というのがヴェーバーの見立てです。イエス自身には、営利追及を天職とする倫理はありません。パウロにもないし、またカトリックにもありません。ルターとともに、この倫理は始まるのです。というのも、ルターの訳として普及した聖書の中で、職業が「Beruf」と訳されたのです。いま、「天職」と呼んできた言葉は、このドイツ語の単語です。「Beruf」は、英語では「calling」です。つまり、呼びかけです。誰が呼びかけるのか。もちろん神です。神の呼びかけに応じることが仕事だ、という倫理をルター訳聖書が与えた。ルターは、日常的な労働に、ただ儲かるということではなく、宗教的な意味合いを与えたわけです。

少しだけ説明に繊細さを加えておきます。ルターより前のキリスト教世界において、労働に宗教性や倫理性はなかった、言いましたが、厳密には、少し違います。古代・中世から修道院では、労働に特別な倫理性があった。そこでは「祈りかつ働け」とされていたのですから。ですから、ルターの宗教改革は、修道院を世俗化し、日常の労働にも倫理性を与えた、ということができます。いや、ヴェーバーをより忠実に解釈すれば、逆に、世俗を修道院化した、と言ったほうが正確です。」

 

分量が増えてしまいました。ほかにも、下記のような本を読みました。英語の本については、機会を改めて紹介しましょう。

 

  • マルクス・ガブリエル著『なぜ世界は存在しない』清水一浩訳(講談社メチエ、2019年)
  • カンタン・メイヤスー著『有限性の後で:偶然性の必然性についての試論』千葉雅也ほか訳(人文書院、2016年)
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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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