冬休みの宿題の話

冬休みの宿題の話

塩原 俊彦

冬休みの宿題として、The Economist(December 22nd, 2018)に掲載された“Animals in court, Do they have rights?”という記事を読んで、感想文を1月10日のゼミの日に提出するように求めました。わたしのゼミでは、夏休みなどに宿題を出すことは珍しいことではありません。今年の夏休みにはドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』、江川卓著『謎解きカラマーゾフの兄弟』、高野史緒著『カラマーゾフの妹』の三冊を読んで、感想文を提出せよという宿題を課しました。

今回の課題には、大きなねらいがあります。前回、このサイトにアップロードしたように、肉体やデータをめぐって所有問題が生じています。それは、「資産をめぐる揺らぎ」とみなすことが可能です。今回の課題となった記事は、動物を長く「もの」とみなしてきた見方が揺らいでいることを記述しています。世界の潮流に無関心な日本のマスメディアでは、なかなかお目にかからない、実に興味深い内容になっています。だからこそ、若い人々にこうした揺らぎに気づいてほしいのです。そして、その揺らぎのなかから新しい見方を紡ぎ出してほしいのです。

 

「意識」について

まず、資産と直接的には無関係な論点として「意識」の話が出てきます。AI(Artificial Intelligence)に絡んで、AIは無限の可能性をもつと誤解している人がいます。しかし、それはおそらく間違っています。AIの限界は意識がないことなのです。

宿題にした記事には、Happyという名の象が“mirror self-recognition test”(鏡像自己認知テスト)に合格した話が出てきます。詳しい話は割愛しますが、鏡に映った自分を自分であると認識できれば、そこに意識があるとみなすことができると考えているわけです。

しかし、意識そのものの定義にはさまざまあります。

ジュリアン・ジェインズ著『神々の沈黙: 意識の誕生と文明の興亡』に基づいて「意識」に関する諸説を整理してみると、意識にはつぎの諸説があります。

①物質の属性にまで還元できるとする新実在論(内観において感じる主観的状態は系統発生的な進化をさかのぼれば、相互に作用する物質の基本的な属性にまでたどることができ、意識と意識されているものとの関係は天体間の重力の関係とすら変わらない)、②あらゆる生命体の基本的属性であり、単細胞動物の感応性が腔腸動物、原索動物、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類、人類へと進化した結果であると考える、③意識の発生は物質とともにではなく、動物の誕生とともにでもなく、生命がある程度進化した特定の時点であったとみなし、その出現の判断規準として、経験によってあるものが他のものへと結びつく「連合記憶」がうまれる起源を重視する、④単純な自然淘汰によって生物学的に進化した連続性の結果として生まれたのではなく、言語を話し、知性をもつ人類と、そうでない類人猿との間に不連続性を認め、そこから意識がうまれたとみなす、⑤動物は進化し、その過程で神経系やその機械的反射作用の複雑性が増し、神経がある一定の複雑性に達すると、意識が発生するとみなす、⑥物質のあらゆる属性は、その物質が誕生する前の不特定の要素から創発したもので、生命体特有の属性は複雑な分子から創発し、意識は生命体から創発したと考える、⑦すべての行動はいくつかの反射とそれから派生した条件反射に還元でき、意識は存在しないという行動主義、⑧脊髄の上端から脳幹を経由して視床と視床下部へとつながり、そこへ感覚神経と運動神経があつまってきている「網様体」という部位に意識がかかわっているとする――といったさまざまな見方があるのです。

 

AIの限界

AIは問題を解決する能力であるインテリジェンス(知性、知力)をもっています。ただし、そのための手順がアルゴリズムとして示されることで、AIはその知性を発揮できるだけにすぎません。他方で、AIは苦痛、喜び、愛、怒りのような感情を感じる意識をもっているわけではありません。ゆえに、AIは意識をもたず、倫理に対してもまったくその埒外にいます。人間の心を知らないからです。

実は、人間は意識についてなにも知りません。それがどのように形成されるのか。そもそも「自由意志」は存在するのか。

歴史学者ユヴァル・ハラリの著した『21世紀のための21の教訓』の指摘は参考になります(この本についてはすでにこのサイトで紹介したことがあります)。自由意志によってあなたが欲していることを行うことが自由を意味するとすれば、たしかに人間は自由意志をもっていることになりますが、自由意志によって欲していることを選択することが自由を意味するのであれば、人間は自由意志をもたないと、かれは指摘しています。ゲイであるかれによれば、ゲイになるかどうかという欲求を選択する自由などかれにはなかったのであり、自らの身体の内側でなにが起きるかを自分自身はコントロールできないと強調しています。したがって、ハラリのような後者の立場からみると、人間はそもそも自由意志をもっていないとも言えるのです。

 

Happyへの召喚状

つぎに記事の本題に入りましょう。2018年12月14日、ニューヨークの裁判所(オルレアン郡にあるニューヨーク州最高裁判所)はハッピー(Happy)に違法な拘禁を防ぐための出廷命令令状(habeas corpus)を出すことを求める請願についてブロンクス郡(ハッピーがいる動物園の所在地)で適切に審理するよう判決を下しました。この請願は、Non-Human Rights Projectという団体によって提起されたものでした。知的で自己認知可能なハッピーには法の完全な保護を求める資格があるというのです。いわゆるコモンローのもとで、令状のはじめにhabeas corpusというラテン語が書かれていたのですが、これを英語に逐語訳すれば、have the bodyとなります。拘禁された「もの」が痛めつけられているかもしれないので、そのからだを法廷に連れてこさせて保護しようというものでした。

記事によると、これまで動物のためのhabeas corpus申請はすべて欧米の裁判所では却下されてきました。しかし、2018年5月、チンパンジーのトミーの件にからんで、一人の裁判官が「チンパンジーに対するhabeas corpusを拒む主たる論点は間違っていると思う」と発言したのでした。これは、「動物には法的義務を果たしたり、あるいは、その行動を説明したりする能力に欠けている」ということを論拠に、動物にhabeas corpusを出して保護することを裁判所が認めてこなかったことに対する挑戦を意味しています。その根拠は、人間の幼児や昏睡状態の人間の大人にも同じことが当てはまるのに、幼児のためにhabeas corpusを手に入れようとすることを不適切とは考えていないところにあります。幼児に認められているのなら、同程度の認知能力をもつ動物に人間並みの権利を認めるべきなのではないかというわけです。

 

問題の核心

わたしがこの記事でもっとも重要だと思う指摘はつぎの部分です。

「大部分の法制度は法の対象を人間か所有物(propertyをどう訳すかには苦労しますが、ここでは所有物としておきます)かのいずれかとして扱っている。第三のカテゴリーは存在しない。法律上の人には権利があり、保護が保障されているが、所有物にはそうしたものはない。家畜化された動物は経済的な資産であり、法律はいつでも動物を所有物とみなしてきた」

別言すれば、「人間」および「所有物」ないし「資産」という二分法で法の対象を区分する際の規準が揺さぶられていることになります。

 

興味深い事例

記事では、興味深い事例が複数紹介されています。わたしの知らなったことばかりです。学生に感じてほしいのは、いままで知らなかったことを知る喜びや楽しさです。わたし自身、自らの愚かさを実感させてくれる未知の情報に接するたびに楽しさや喜びを強く感じます。だからこそ、毎日、勉強しているわけです。

さて、まず興味深いのは、11月にカリフォルニア州において、檻で囲われた農場の動物のために最小限の空間を確保することを求める住民投票が認められたことです。過去10年間に、欧州連合(EU)、インド、台湾、七つのブラジルの州、カリフォルニアで、動物に対する化粧品の試験をすることが全面的に禁止されたそうです。フロリダ州の有権者はグレーハウンドという犬のレースを禁止し、ニューヨークやイリノイ州では、象のサーカスを禁止しました。アイオワ州では、動物法的保護基金(Animal Legal Defence Fund)が野生動物を保護する絶滅危惧種法に違反する動物園を訴え、勝訴しました。米農業省はその動物園の免許を取り消しました。

EUやニュージーランドを含む、少なくとも八つの法域が、動物は感覚力のある生き物(sentient beings)であると法律に書いているそうです。実におもしろいのは、三つの米国の州がペット保護法を制定し、動物に感覚力を認めることの実践的意味を明確化したことです。具体的には、離婚する際、動物の関心や感覚が考慮されなければならなくなったことです。動物はもはや家具というよりも子どものように取り扱われなければならなくなったのです。

おそらくこれから10年もたてば、コミュニケーション・ロボットに対しても、なんらかの特別な措置が求められるようになりかもしれません。動物と同じく、ロボットにも特別待遇が必要になる時代が目前まで迫っているのではないでしょうか。

こうした海外の事例を知っていれば、商業捕鯨再開が難しいという理由で、国際捕鯨委員会からの脱退を決めることがいかに「軽挙妄動」であるかに気づくはずです。日本独自の文化といった主張自体に正当性を認めることはもはやできません。人類は人類として、人間以外の動物やロボットに真正面から向き合わなければならない時代に突入したのです。

 

過去に学ぶ

「人間動物園」の話は有名ですね。日本では、沖縄の人類館事件が知られています。わたしのゼミの沖縄出身の学生はこれを卒論のテーマにしたほどです。この話は、同じ人間を動物として動物園の見世物として扱うというものですが、逆に、動物を人間と同じように裁判に引きずり出して裁判の対象としていたという事実は知りませんでした。まあ、人間も動物ですから、人間至上主義が確立する以前の段階では、大真面目に動物であっても裁判にかけられたのでしょうね。1494年のイースターの日に赤ん坊を殺し食べた罪で豚が有罪判決を受け、絞殺されたのだそうです。

そもそも法律が対象とする“personhood”(人であることの条件ないし質)は相対的なものでしかありません。その典型が「法人」という考え方ですね。カルロス・ゴーンをめぐる事件で、日本の検察当局は有価証券報告書の虚偽記載で、法人としての日産自動車も起訴しました。つまり、人間でなくとも法の対象になります。

「川」もまた“personhood”をもてることをはじめてしりました。記事によると、2017年にニュージーランドでは、原住民であるマオリ人を保護するためにその権限を強化するためにワンガヌイ川に法的“personhood”が認められ、この川が原告になることで被害を告発できるようにしたらしい。同年、インドのウッタラーカンド州最高裁判所はガンジス川とヤムナ川に法的“personhood”を与えました。ただし、インド最高裁はこの判決を覆しました。

驚くべきことは、動物保護団体のPeople for the Ethical Treatment of Animals(PETA)が写真家のデヴィッド・スレイターを提訴したことです。サル科のマカクがスレイターのカメラで自撮りした写真を写真集として出版したのはマカクの著作権を侵害したというのです。裁判所は政治的な問題だとして訴え自体を拒絶しましたが、これは決して笑い事ではないのです。

インドの環境省は2013年、イルカやクジラを含むクジラ目がかれらの独自の権利をもった“non-human persons”であるとしたうえで、クジラ目を娯楽のために飼おうとするいかなる申請も却下するように州政府に伝達したそうです。2014年には、インド最高裁は、動物は所有物であるとしながらも、すべての動物が憲法のもとで固有の生きる権利を有しているという判決を出したといいます。

 

“non-human persons”としての動物

人間ではないにしろ、人間並みの権利を主張できるとされる“non-human persons”という「格」が裁判で動物に認められる動きが広がっています。2016年に、アルゼンチンのメンドーサ州の裁判官はチンパンジーのセシリアがメンドーサ市の動物園に置かれて恣意的に自由を奪われた“non-human persons”であるとの判決を出しました。かれは、ブラジルの保護区にセシリアを連れて行くように市に命令したのです。2017年になると、コロンビアの最高裁もクマに“non-human persons”を認め、動物園から保護区への移動を命じました。これは、いわば人間以外の動物が人間という動物に近づきつつある現象ととらえることができます。

 

Furryの広がり

このように、人間という動物と人間以外の動物の区別の規準が曖昧になりつつあるのは世界的な傾向にあるようです。この現象は人間という動物が人間以外の動物に近づく現象をも引き起こしていることに気づくことが肝要です。これがもっとも興味深いことだと、わたしには思われます。

毎週、楽しみにしている記事に町山智浩の「言霊USA」という『週刊文春』の連載があります。2018年12月20日号では、「Furry(ケモナー)」という話が登場します。擬人化された動物を愛する人々を意味しています。この「ファーリー」のはじまりは手塚治虫原作のTVアニメ、ジャングル大帝(1965年)からだというのが研究者の定説になっているという。ファーリーは人間である自分とは別の、犬や猫としての姿と名前やキャラクターをもち、それをファーリー+ペルソナ(仮面、人格)と呼ぶのだそうだ。米国では、長くファーリーはバカにされてきました。獣キャラがセックスするファーリー・ポルノが多かったせいで、動物に性欲を感じる変態と決めつけられてきたからだそうです。

しかし、いま、米国ではファーリーの「市民権」が回復傾向にあります。データ・サイト「ファーリーサイエンス」の統計によると、ファーリーには女性や子どもが多く、ファーリーに惹かれた動機は性欲とは無関係という主張が広がっているようなのです。最近のCNNの記事によると、ファーリーにはコミュニケーション障害やPTSDに苦しんでいた人が多く、かれらの61.7%は11歳から18歳までの間にいじめの被害者であったと町山は紹介しています。

 

21世紀龍馬」への願い

たぶん、「動物⇒人間」、「人間⇒動物」という二つのベクトルは、同じ動物である人間とそれ以外の動物との境界や区分の困難という現象によってもたらされているように思われます。そして、それを引き起こしているのは「マシーン」の発展でしょう。こうした21世紀を生きなければならない「21世紀龍馬」はこうした問題に真正面から取り組んでほしいと心から望んでいます。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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