Dishonest Abe and his colleges(不誠実な安倍とその仲間たち)
Dishonest Abe and his colleges(不誠実な安倍とその仲間たち)
塩原 俊彦
今日のテーマはHow to deal with Dishonest Abeである。因みに、今週号のThe Economistのテーマの一つはHow to deal with Vladimir Putinである。本当に、安倍晋三とウラジミル・プーチンはそっくりだ。
今日、TBSの「時事放談」のなかで、藤井裕久元財務大臣はDishonest Abeが辞めるべきであるとはっきりとのべていた。かれは総理大臣を辞めるべきだと言ったが、わたしはDishonest Abeの国会答弁通り、国会議員も辞めてほしいと望んでいる。
藤井の隣にいた石破茂は煮え切らない態度をとっていた。「おいおい」である。
人の倫(みち)に反したことをやっただけでなく、いまでも倫理を毀損しつづけている人間を総理大臣や国会議員のままにさせていて本当にいいのか。Dishonest Abeをかばうような人間はDishonest Abeと同じく倫理観の欠如した人間と思われてしまうが、それでいいのか。
Dishonest AbeやDishonest Asoに対して、法的責任論を説いて辞任させるというやり方は実効性があるとは思えない。Dishonestという、不誠実で不正直な者が法律論に真正面から向き合うとは思えない。むしろ、かれらの不誠実で不正直な点、すなわち、道徳観の低さ、倫理性の欠如を全面的に訴えるほうが厳しい批判につながるのではないか。そう思っているからこそ、わたしは2017年からずっとDishonest Abeという呼び方をしてきたのである。
すでにこのサイトで指摘したように、Dishonest Abeは「法の支配」(Rule of Law)を道徳や規範と一体のものとして狭く解釈している。その結果、「法さえ守ればなにをしてもかまわない」かのような私見をもっているやに見受けられる。つまり、倫理観が乏しい。
まともな教育を受けていれば、法は倫理にできるだけ一致しなければならないのは当然だが、法を超えた倫理とも向かい合わなければならないということに気づくはずだ。人を殺すことは倫理上、許されないかもしれないが、法によって死刑執行や戦争での戦闘行為による殺害が刑法上の罪に問われないように制度化されている。そうであってもなお、倫理上、そんなことをしても本当にいいのかを問うのが倫理なのだ。法の命ずるままにユダヤ人を収容所送りにしていたアイヒマンは人間としてそんなことをつづけていいかを問うべきであったのである。
同じように、Dishonest Abeは「意図的で不正確な情報」であるディスインフォメーションを国会審議の場で数多く垂れ流してきたし、いまでも垂れ流している。そこには、倫理上、道義上の責任がある。Dishonest Abeのディスインフォメーションを「正確な情報」であるかのように取り繕ってきたDishonest Abeの内閣全員もまた倫理上、道義上の多大な責任がある。さらに、倫理観の欠如したDishonest Abeを自民党総裁に選んだ自民党議員は全員、裏切られたとして怒るべきなのではないか。人としての倫(みち)さえ守っていないDishonest Abeを非難できないのであれば、Dishonest Abeの仲間とみなされても仕方ないだろう。
人としての倫に反し、国民を騙し、総選挙まで行った張本人を今日の時点でも批判できなかった石破茂は、もう自らがDishonest Abeにある意味で理解を示していることをさらけ出した。別言すれば、「同じ穴の狢」であることを示したことになる。これに対して、藤井はDishonest Abeに対して総理大臣を辞めるように明言した。藤井には倫理観がしっかりとあり、Dishonest Abeとはまったく違うことを示してくれた。
中国の全国人民代表大会(全人代)は2018年3月17日、国家副主席に王岐山・前共産党中央規律検査委員会書記を選出した。このときの投票では、有効投票2970票のうち反対はわずかに1票だった。それでも、習近平の独裁化を促す王岐山の副主席就任に反対票を入れた人物が一人いたことになる。いまの日本において、自民党や公明党の国会議員のなかには、Dishonest Abeに対して、「王様は裸です」と言える者はだれもいないのか。Dishonest Abeの仲間だけなのか。
Dishonest Abeの本性が明らかになりつついま、なおDishonest Abeの肩を持ったり、かばったりする者は道徳心や倫理観についてよく考えてほしい。国会の場で不正確な情報を故意に繰り返し流しつづけ、国民を騙してきた人物が本当に総理大臣であっていいのか。本当は、法律で厳しく罰するべきだが、それが難しい以上、せめてかれの倫理観の欠如を徹底的に追及し、首相ポストから追い出すのは当たり前ではないか。
Dishonestな人物に厳しい目を
倫理の欠如という、人の倫に反している人間を本当に総理大臣のままにしておいていいのか。Dishonest Abeであるがゆえに、法的責任については背を向けつづけるだろうが、倫理の欠如批判をも無視しつづけられるのだろうか。
わたしは2003年に講談社現代新書として『ビジネス・エシックス』という本を上梓した。そこでもっとも心がけたのは、会社がコンプライアンス(法律遵守)教育を押しつけるのと同じような視角からは「ビジネス・エシックス」を説くまいということであった。わかりやすく言えば、「この本を企業の研修で使ってもらおう」などという「せこい考え」から無縁でありたいと願っていたのである。なぜなら「ビジネス・エシックス」をビジネスにかかわる倫理に限定することは間違いであり、倫理は人として生きてゆくための「倫」(みち)であり、もっと広範な概念であることを十分に心得ていたからにほかならない。だからこそ、Dishonest Abeの狭量な理解を批判し、人間としての倫理観の欠如を糾弾しているのだ。
思えばDishonestな輩はたくさんいる。最近で言えば、伊調馨へのパワハラ問題でなんの発言もしない吉田沙保里が典型的なDishonestな人物ということになるだろう。まったく情けない人間ということがよくわかる。相撲界では、八角信芳がその筆頭だろう。吉田はCMにまで登場しているが、Dishonestな人物が顔をさらすだけでその商品にきわめて悪いイメージがつくことになぜ会社は気づかないのだろうか。八角はモンゴル人による八百長疑惑を隠蔽している張本人である可能性が濃厚だ。
Dishonestなキャスターもたくさんいる。宮根誠司がその典型だろう。女性スキャンダルをかかえながら、よくもテレビに出つづけられるものだなあとつくづく思う。Dishonest Abeと同じように、倫理観が欠如しているからこそできることなのかもしれない。小倉智昭もまたDishonestな人物だ。かれらには「恥」という感情すらないのかもしれない。
ニュースをバラエティ化して、「不正確」にするのは、ディスインフォメーション工作上、世界中で進んでいる傾向だ。この傾向が日本でも進行している。それは、Dishonestという倫理や道徳の軽視につながっている。ニュース報道ではなく、ニュースショーの司会であれば、CMに出てもいいのか。「スカパー!」やキリンビールのCMに出ていた夏目三久はDishonestそのものだ。クラシエやグラクソ・スミスクラインのCMに登場したホラン千秋も同じである。こんな連中を公共の電波に乗せているテレビ局の幹部もまたDishonestな人間であると思われも仕方がないだろう。もう日本のあちこちで倫理が壊れているのだ。
Dishonestな輩が倫理観に乏しいと批判するのは健全な行為である。こうした連中が公共性を害しているのだから。そうであるならば、Dishonest Abeが非難の的となるのは至極当然である。かれもまた著しく公共性を害してきたし、いまもそうだからだ。
Dishonestな学者もたくさんいる。ディスインフォメーションを発しつづけているのに、恥知らずにも公共の電波を使って、その不正確な情報を伝播させている。具体的な名前は拙著『ウクライナ2.0』や『ウクライナ・ゲート』に書いておいた。
もちろんDishonest Abeを寛恕してやることもできる。しかし、そのためにはまず、Dishonest Abeが自らの倫理や道徳上の瑕疵について反省してもらう必要がある。しかもそれは、口先での遺憾表明ではなく、内閣総理大臣を辞めることでしか果たせない。国会議員を辞めることについては、総理大臣を辞めれば赦す人もいるかもしれない。しかし、国民を騙して行われた先の衆議院選で当選した以上、その「詐欺」の張本人の責任は大きいわけだから、国会議員も辞めるのが筋だと思う。それは、自民党や公明党の議員にも言える。
まあ、そこまで筋を通せと強弁はしないが、ともかく倫理や道徳上、瑕疵がある人物が総理大臣や財務大臣、官房長官をやっているのはまずい。Dishonest Abeはもはや世界中から相手にされていない。それはプーチンと同じだ。こんな人物が首相でありつづけるだけで、日本国は世界からますます相手にされなくなるだろう。
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