Dishonest Abeは人治主義・反法治主義
Dishonest Abeは人治主義・反法治主義
塩原 俊彦
このサイトでは、安倍晋三をずっと“Dishonest Abe”と表現している。かれは「不誠実」、「不正直」な人物であるからだ。はっきり記せば、倫理観に乏しく、法律を軽視する反法治主義者、すなわち時代錯誤の人治主義者であると、わたしには思われる。
3月26日、わたしはある出版社の編集者からホテルでインタビューを受ける。官僚制について尋ねられるのだが、森友問題に絡む公文書改竄問題も話題になるだろう。そこで、今回の問題とDishonest Abeとの関係を分析してみた。できるだけ冷静に学術的に書こうと思ったが、ところどころ感情が露見しているところがあるかもしれない。お許しいただきたい。
アイヒマンよりひどい財務官僚
財務省の役人のやった公文書改竄は、倫理に反しているだけでなく、法律違反(虚偽公文書作成)であり、犯罪行為である。この意味で、この行為はユダヤ人を収容所送りにしていた官僚アドルフ・アイヒマンが命令を執行しただけだと主張したことよりもずっと下劣であると指摘したい。アイヒマンは、かれの言い分によれば、倫理違反はしたが、法は遵守したらしい。しかし、財務省の官僚は人間の倫(みち)である、倫理を無視しただけでなく、法も破ったからである。法の遵守こそ官僚の根幹であり、この遵法精神こそ官僚の死命を制するのである。官僚による公文書改竄は万死に値する。
なぜか。官僚の公文書改竄や嘘の答弁に基づく国会での審議は民主主義の根幹を揺さぶるからである。現に、財務省は会計検査院に改竄後の文書を示し、その検査を欺いた。それどころか、それを許してきた安倍晋三は2017年10月、衆議院選挙を実施し、国民すべてを欺いたのである。財務省官僚によるまったくでたらめな国会答弁を許し、その人物を国税庁長官にまで昇進させながら、国民を欺きつつ大義名分のない選挙を平然とやってのけたのだ。Dishonest Abeが総理大臣になれたのはこうした虚偽のうえでのことなのだ。こんな状況下では、民主主義は成り立たない。Dishonest Abe自体が民主主義を根本的に否定してきたと言ってもいいだろう。法治主義を愚弄し、人治主義を実践してきたからだ。
テレビを見ていると、すべての責任を佐川宣寿になすりつけようとする麻生太郎の首をどうとるかが話題になっているようだが、そんなことは本筋ではない。民主主義の基盤を崩壊させて衆議院選挙まで実施し、首相の座についているDishonest Abeが問題なのである。その内閣を形成している大臣すべてがまったく正統性をもっていない。
アイヒマンの場合、事務処理をこなすだけの官僚が数百万人を死に至らしめたにもかかわらず、法の遵守のもとで思考停止してきたことが問題になったわけだが、今回の公文書改竄事件はその法の遵守すらできなかったところに問題がある。逆に言えば、官僚のとるべき最も重大な義務を守れないほど追い込まれたていたことになる。追い込んだのは安倍晋三・昭恵夫妻であり、麻生太郎だ。
世襲議員と人治主義
安倍晋三や麻生太郎は財務省理財局長が主導して公文書を改竄したとして自らの責任をまったく果たそうとしていない。民主主義を無視し、法の支配を歪め、倫理観さえ持ち合わせているようにはみえない政治家が日本にはいっぱいいる。とくに自民党に多い。そして、なかでも下駄をはかされて政治家になっただけの世襲議員が目立っている。
Dishonest Abeも麻生も世襲議員である。かれらが日本の政治を人治主義に傾かせているのだ。地盤、看板、鞄という「三バン」のもとで、下駄を履いたまま政治を「家業」としているかれらは近代化以前の世界に生きていると言えるかもしれない。近代国家は法の遵守とする近代官僚制によって支えられている。しかし、世襲議員にとっては、法の遵守もその法を制定するための近代民主制も関心事ではない。かれらにとって重要なのは「人」であり、かれらは有能な人物の裁量や裁断を中心に治める考え方である人治主義に染まっている。ゆえに、その反対概念である法を中心とする法治主義を軽視している。その結果として、官僚が法律を守らない事態まで招いているのだ。人治主義は近づいてくる人を染め上げるのであり、法律無視の裁量を重視するようになる。
Dishonest Abeは「お友達内閣」をつくったとして批判されてきた。これはまさに人治主義に傾くDishonest Abeの本性と言えよう。官僚制は能力主義をその基本としているのだが、人治主義はこの能力主義を否定し、仲間の優遇、法律を無視した裁量政治を重視するのである。こうしたDishonest Abeの人治主義が官僚をも法律軽視に向かわせたのと考えられる。Dishonest Abeの「仲間」に入れば、能力に重点を置く法治主義を無視して裁量に任せた人治主義によって出世できると考えたのだろう。
世襲議員は若いうちから、ちやほやされながら育つ。類が友を呼び、加計孝太郎のような友も集まるのだろう。安倍昭恵には籠池泰典が友として集った。こんな連中は人治主義という言葉も知らないと思うが、少なくとも法律の重要性など眼中になかったはずだ。結果的に、かれらのお友達優先という考え方が人治主義を招き寄せ、法律を無視し、民主主義を崩壊させたのである。
Dishonest Abeには『美しい国へ』という本があることを思い出そう。「美しい」という個人の感覚を「国」にまで広げようとする主張こそDishonest Abeの人治主義の証である。人治主義をとれば、法を無視するだけでなく他人の感情をも誘導できると思っているからこそ、「美しい国」などという妄想を本気で考えるのだ。ゆえに、Dishonest Abeは民主主義に基づく立法によって統治する法治主義を蔑ろにする。こんな人物が世襲議員のなかにたくさんいる。日本の政治は人治主義という前近代的な統治を許す方向に向かっていると指摘しなければならない。
Rule of Law
わたしは閑話休題「“Dishonest Abe”から“Hitler Abe”へ:バカばかりの官僚・マスコミ」をこのサイトにアップロードしている。そこで、Dishonest Abeが「法の支配」(Rule of Law)を主張していることに着目し、つぎのように書いた。
Dishonest Abeは2014年10月、国際法曹協会(IBA)が東京で開催した年次大会に招かれ、その場で「法の支配」について演説したことが知られている。そこで、「法の支配」は西洋を起源とする用語だが、アジアでも同様の考えがあるとし、吉田松陰や聖徳太子の「十七条憲法」を持ち出しただけでなく、「法と正義の支配する国際社会を守ることが、日本の国益」であり、法の支配の実現に向け外交を展開する、とまでのべたという。Dishonest Abeは「法の支配」の考え方は普遍的だとし、「人類愛によって結ばれ、助け合う人間が、合意によって作っていく社会の道徳や規範。それが法です」と演説したのだという。
人治主義者のDishonest AbeがRule of Lawを説いていることに違和感を覚えるかもしれない。しかし、人治主義者であるからこそ、Dishonest AbeはRule of Lawの本質を理解しないまま主張しているのだ。
説明しよう(一部は過去の閑話休題と重複している)。まず、法は道徳や規範よりもずっと狭い領域にしかかかわっていないことを確認したい。「法の支配」という言葉は“rule of law”という英国圏の概念であり、その成立過程は“rights”の意味が、「正しさ」から「権利」(あることをするか、しないかという選択の自由にかかわる)に傾いてしまう時期に重ねて理解しなければならない。Rightsの意味の変容は、統治が「聖なる権威」から「俗なる権力」に移行した時期に呼応している。
法を意味するlawは、あることをするか、しないかをどちらに決定する束縛を伴うものであり、その法が民主的手続きに則って制定されれば、その法が「正しい」ことを不可避的に内在することになり、法そのものへの懐疑の念を弱体化させ、法は束縛として人間を拘束することになる。しかも、この法は共同体を前提に制定されるものであって、神の命令としての自然法ははるか昔に忘れ去られ、人間がつくる共同体全盛の時代になってしまっている。 ここでの記述の理解にはヴァルター・ベンヤミンの鋭い指摘が参考になる。彼は、「暴力批判論」のなかで、「正しい目的は適法の手段によって達成されうるし、適法の手段は正しい目的に向けて適用されうる」というドグマをめぐって、「手段の適法性と目的の正しさについて決定をくだすものは、決して理性ではない」と指摘、「前者については運命的な暴力であり、後者については――しかし――神である」と述べている。「目的の正しさ」を決定する「神」がいなくなると、もう「正しさ」自体に真摯に向かい合うことがなくなってしまうのだ。
そうした状況変化のもとで、「法の支配」は「倫理」や「道徳」から逸脱し、「神」にとって代わろうとしてきた「国家」の都合のいいものなっていく。したがって、「法の支配」は決して「正しさ」を示していない。ゆえに、「法の支配」はまったく不十分なものでしかないのである。この点が決定的に重要なのだが、Dishonest Abeはこの点がわかっていない。
人治主義者のDishonest Abeにとって、法も倫理も重要なものではない。にもかかわらず、「法の支配」の考え方は普遍的だとし、「人類愛によって結ばれ、助け合う人間が、合意によって作っていく社会の道徳や規範。それが法です」というのは明らかにおかしい。法と道徳や規範という倫理を同じものとするのはまったく間違っている。にもかかわらず、Dishonest Abeはこんな暴論を振りかざすのか。
理由は簡単である。かれは人治主義者であり、自分の裁量でつくり出す「法=道徳」を普遍的なものと位置づけて自分の裁量ですべてを統治する全体主義的傾向を強くもっているからなのだ。ゆえに、自分の「美しい」という感覚を「国」にまで広げて、自分の裁量で仲間を集めて、法を無視し倫理を蹂躙しながら統治していこうとしているのだ。だからこそ、人治主義者であるがゆえに、Dishonest Abeは間違った理解に基づいて「法の支配」(Rule of Law)を平然と主張しているのだろう。
遵法のためのメカニズム構築
近代国家を前提とする近代官僚制のもとでは、官僚に遵法精神を植え込み、実際に法を遵守させることが必要になる。そのためには、しっかりとした制度やメカニズムを構築しなければならない。法の遵守を徹底させるには、官僚への教育はもちろん、監視強化、内部通報者保護制度の拡充・整備といった組織上の改革が考えられる。ここでは、監視強化と内部通報者保護の問題について簡単にふれておきたい。
官僚を官僚が監視するというのは残念なことだが、こうした体制を整備すれば、法の遵守を促す一助にはなる。大阪地検の検事でさえ、証拠資料の改竄に手を染めていたわけだから、警察庁や自衛隊の内部、検事、裁判官を含めた官僚の監視機関をつくるという発想は決しておかしくはない。ただし、これでは「屋上屋を架す」ことなってしまう。むしろ、米国のように、必要に応じて独立性の高い特別検察官のようなものを置き、捜査・起訴権を与えて、徹底的に浄化できるようにする仕組みづくりをするほうが望ましい。その場合、特別検察官の設置をだれがどのような条件で行うかが問題になる。
本当は、こうした新しい制度をつくるよりも先に、既存の国政調査権の発動をもっと迅速に、より簡素な手続きで実現できるような制度改正が必要であろう。政治家はまじめにこの制度改革に一刻も早く取り組むべきだ。早期に実現すべきは財務省主税局を分離し、国税庁および社会保険庁と統合して独立した機関とすることである。米国の内国歳入庁のような機関を設立し、財務省の権力源泉である徴税部門を明確に取り上げることが必要だ。
内部通報者保護については、日本はまったく遅れている。公益のために通報を行った労働者に対する解雇等の不利益な取扱いを禁止する法律として「公益通報者保護法」があるのは事実だが、これは決してうまく運用されていない。その適用範囲も狭い。「ホイッスルブローイングを促す」程度まで踏み込んだ抜本的な改革が必要なのではないか。韓国では、公的部門(政治家や官僚)の腐敗防止法が強化されるかたちで2008年に「腐敗防止並びに国民権益委員会の設置及び運営に関する法律」が制定された。民間部門でも、2011年に「公益申告者保護法」が制定されており、これらの法律によって内部告発がしやすくなっている。韓国のこうした制度の長所・短所を見極めたうえで、日本でも制度を早急に改革しなければならないだろう。
組織のなかで幹部から脱法行為を命じられるような場合、その事実をどう通報し、脱法行為そのものの抑止につなげるかは簡単な問題ではない。それでも、信頼できる独立機関が内部通報者の言い分に耳を傾け、捜査も起訴も行えるようになれば、まじめに仕事をしているようには思えない地検特捜部よりもずっと頼りがいのある機関となるだろう。権力機関の間の競争関係の導入を恐れてはならない。むしろ、権力執行機関の独占化よりは競争導入のほうが悪の摘発や悪の防止には役立つだろう。
世襲議員を排除せよ
第二の論点は政治家と官僚との関係である。政権を握った与党政治家が省庁の大臣や副大臣ポストを占めて、行政を行うことは決しておかしなことではない。政治家がトップに就いた内閣人事局が省庁幹部の人事権を握って、官僚幹部の人事を行うのも不可思議なことではない。官僚が法を遵守しているかぎりは、官僚が政治家の言いなりに行政を執行することはできないはずだからである。その意味で、国民全体の奉仕者たる官僚の責任は重いのだ。しかし、現実には、官僚は法を犯し、犯罪行為に手を染め、行政を歪めてしまっている。これがいまの日本の現状なのだ。
世襲議員が増え、法治主義を軽視し、人治主義のもとに裁量政治に傾いている日本政治の最大の欠陥に気づかなければ、同じことが繰り返されるだろう。現に、世襲議員である小泉進次郎が第二安倍になろうとしている。
そうであるとすれば、どうすべきか。まず政治家の質の向上を求めたい。世襲議員の排除が最低限の条件だろう。地盤、看板、鞄という三つのバンを受け継ぐ世襲議員は明らかに不平等な仕組みで議員に選ばれているという現実を糺さなければならないのだ。もちろん、こんな連中に投票する有権者がバカなのだが、こんな連中くらしか立候補できない仕組みそのものを変えなければ、有権者の選択肢そのものが広がらないのだ。
他方、官僚にも問題がある。「長い物には巻かれろ」という掟がいまでもまかりとおってしまっている。面従腹背という態度をとって、政治家の要求を実際には無視できればいいが、それだけ骨太の官僚がいるとは思えない、悲しい状況に至っているように思われる。その背後には、官僚の劣化がある。
まず日本の官僚は全般に無能であるとはっきりと指摘しておきたい。日本の国家公務員といっても、国家公務員の仕事の多くは経済協力開発機構(OECD)や国連などの国際機関で決められた政策を日本語に翻訳して日本に導入しているだけにすぎない。いわゆるグローバリゼーションのもとでは、国家公務員の仕事といっても国際協調のもとで決められた条約などを国内に適用するだけになりつつある。しかし、日本にはそうした国際ルールの決定に大きな影響力をおよぼしうるだけの実力をもった官僚はほとんどいない。国家公務員上級試験に合格して官僚になったところで、下駄を履かされてハーバード・ケネディ・スクールを修了しても、国際的な教養に欠けるバカを養成しているだけのことなのだ。
たとえば、外交官といっても、交渉相手との日程調整に終始しているのが日本の外交官だ。哲学や宗教、時事問題にいたる教養を身につけた外交官にわたしは会ったことがない。わたしがつきあった外交官はすべて無能であったと書いておこう。本当に情けない状況がつづいている。
つまり、官僚そのものの任用や昇格などの人事面の改革も喫緊の課題だろう。官僚の教育にあたっては、rule of lawよりも倫理が重要であることをしっかりと教え込まなければならない。日本政府が隠密裏に核兵器開発に着手するとき、それを知った官僚は国家機密保護法を無視してその事実を暴露するのが倫理上、正しい選択であると教えなければならないのである。あるいは、政府の命令に反してユダヤ人へのビザ発給をつづけた杉原千畝を礼賛する教育をすべきなのだ。加えて、途中入省を含めた広範な人材登用が必要だ。国民の税金で下駄を履かせて海外留学させる制度はすぐに廃止すべきだ。自力で海外の大学や大学院を卒業した者を官僚に任用すればすむのだから。
元朝日新聞記者として
朝日新聞のスクープに対して、公文書改竄を漏らした人物を特定し、罰しようとする動きがある。だが、これは違う。Rule of Lawは絶対ではないからだ。アイヒマンの場合であれば、法の遵守を超えて人間としてユダヤ人虐殺に手を貸さない方法を考えるべきであったし、リークしたケースでは、リーク者は法の遵守を無視して公務員の犯罪を暴露するというりっぱな行為をしたとみなすべきなのだ。ゆえに、Rule of Lawだけを強調するDishonest Abeは問題の所在を理解していないのである。問題の核心は倫理にあることを忘れてはならない。法律を無視して倫理を守ることは決して罰せられるべきではないのである。そして、倫理も法律も軽んじる人治主義者にしてDishonestな安倍晋三は首相になるだけの器ではないし、国会議員をやっていること自体がおかしいのである。
最後に、わたしは元朝日新聞記者として、今回のスクープを誇らしく思う。だからこそ、深く洞察する力のない似非専門家、似非学者、似非評論家を厳しく批判したい。そのためにこの論説を書いたのである。
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