ディスインフォメーションⅡ

ディスインフォメーションⅡ

塩原俊彦

拙著『ディスインフォメーション』の最終段階にある。細かいチェックをいまやっているところだ。その作業のなかで気になることを書き留めておこう。

 

ディスインフォメーションを簡単に「偽情報」を訳すことが日本では多く行われている。そこには、虚偽の情報を意図的に流して情報受信者側を混乱させるというねらいがあることが示唆されている。そう考えると、この訳は決して間違ってはいない。しかし、決して十分な翻訳とはいえない。

 

検索サイトを使ってディスインフォメーションについて調べてみると、まだこの言葉が人口に膾炙していないことに気づく。加えて、この言葉について深く洞察している日本人は残念ながら見当たらないと書かざるをえない。だからこそ、わたしは約二カ月を使って拙稿『ディスインフォメーション』を書きあげたわけだ。こんなに短期間に400字換算390枚ほどの原稿を書けるのは、日ごろの自己研鑽によるものだと自画自賛しておこう。

 

拙稿で紹介していることだが、ディスインフォメーションはロシア語のдезинформацияの英語訳である。ゆえに、ロシア地域を中心とする研究者であるわたしの研究対象なのだ。このロシア語は、真偽にかかわる「偽情報」だけを意味しているわけではない。真偽を決めるのはときの権力者であり、ゆえに権力者にとっての「正しさ」がその判断に含まれているからである。

 

キリスト教が全盛であったころのヨーロッパでは、こうした問題は存在しなかった。すべての権力は神に集中し、真偽の判断も善悪の判断も正しさの判断もみな神に帰されていたのだから。問題は、人類が神から距離を置くようになって以降、こうした判断の規準を人類自らが決めなければならなくなっているという現実にある。

 

日本語には「是非」、「可否」、「当否」という言葉がある。感覚的にいえば、たぶん、「是非」に近づくほど、善悪の判断が問題になり、「当否」に近づくほど正しいかどうかが問題になっているように思える。いずれにしても、こうした判断をだれが行うかが重要な論点となりうる。

 

拙著『ディスインフォメーション』のなかでは、この問題についてかなり文字数を割いて分析した。ここでは、その内容をあえて書かないが、ディスインフォメーションを「偽情報」と翻訳して「したり顔」をしている連中を批判しておきたい。

 

真偽、善悪、正しさの問題は決して同じではない。真偽の決定はこの三つのなかではもっとも簡単に答えが出る問題かもしれないが、それでもなにが真実でなにが虚偽かを判断するのは難しい。とくに、虚構(ヴァーチャル)と現実(リアル)との区別が困難な時代を迎えているいま、真偽の問題も一筋縄ではゆかなくなっている。

 

このように考えると、ディスインフォメーションという現象をまじめに考えるだけで、21世紀を生きる人類が直面している切実な課題がより鮮明になってくる。わたしが強調したいのは、少しは頭を使ってこうした重要課題に真摯に取り組んでほしいということだ。

 

「21世紀龍馬」という視点に立てば、ディスインフォメーションによる工作という問題はきわめて喫緊の課題である。どうかこの問題について、関心をもってもらいたい。そして、日本だけでなく世界中で広がりつつあるディスインフォメーション工作についてもじっくりと考えてほしい。加えて、そうした努力への補助線として、拙著『ディスインフォメーション』が大いに役立つだろうと宣伝しておこう(と言っても、まだ出版社は決まっていない)。

 

追伸

 

現在、問題になっている森友学園にかかわる公文書改竄問題もディスインフォメーションの問題とみなすことができる。ディスインフォメーション工作はきわめて現代的な問題であり、そこに真偽、善悪、正しさの問題がかかわっていることになる。問題の本質は実に根深い。そのことをどうか意識してほしい。それが、「考える」という行為であり、似非専門家、似非コメンテーターの「軽い」コメントに惑わされないでほしい。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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