閑話休題11 “Dishonest Abe”から“Hitler Abe”へ

“Dishonest Abe”から“Hitler Abe”へ:バカばかりの官僚・マスコミ

 

しばらくの間、放送大学の講義(21世紀の龍馬)の準備で忙しかった。その講義も終了したので、講義でも語ったことの一部をここに紹介しておこう。

今回の閑話休題のテーマは「“Dishonest Abe”から“Hitler Abe”へバカばかりの官僚・マスコミ」である。Dishonest Abeについてはすでに「閑話休題」のなかで取り上げたのでそちらを参照してほしい。ここでは、「バカ」という言葉ついて少しだけ注釈を加えておきたい。

もう10年以上前に書いた拙著『すべてを疑いなさい』(Kindle版)において、つぎのように書いたことがある。

 

「「若者、バカ者でございますね。ええ……。若者、バカ者」

駿台高等予備校の名物英語教師であった鈴木長十の口癖だ。もう三〇年も前の話だが、なぜかとても懐かしい思い出だ。挑発的な言葉にどことなく反発を覚えたからこそ、いまでも思い起こせるのだろう。この教師がなぜこんな言い方をしたのかよくわからないが、英文解釈もままならない若者をバカと呼ぶことで、かれらを鼓舞しようとしたに違いない。

ぼくも、もう五十歳になったから、そろそろ、若者を励ますために、挑発的な本でも書いてみるか。それが本書執筆のきっかけだ。本の副題に、「バカ学生への宣戦布告」という副題をつけることにしたのも、若者を挑発し鼓舞することにねらいがある。ついでに言えば、マゾヒスティックな学生が増えているのではないかという、ぼくなりのゲスの勘繰りも手伝って、思いっきり、厳しい言い方をすることにした。

もちろん、「バカ学生」だけではなく、バカな大人も対象にしたいところだが、まあ、もうあまり人生の残り時間の少ない人を挑発しても意味があるとは思えないので、とりあえず「バカ学生」に向けて書くことにした。

ここでぼくが「バカ」といっているのは、「自らの無能、愚かさに気づいていない人」のことである。実は、このバカの定義にあてはまる人はきわめて多い。ぼくは新聞記者を十年以上してきたから、おそらく千人以上の人々に直接、会って、取材をしてきたが、自らの無能によく気づいて、その無知を克服すべく地道な努力をしていると感じさせてくれた人は十人くらいではないか。それほど、バカが多いのである。」

 

ここでの「バカ」は上記の「バカ」と同じ意で使いたい。要は、Dishonest Abeは不勉強であり、本当に困ってしまう。もっと困るのは、真正面からDishonest Abeを批判する政治家やマスコミ関係者がいない惨状である。本当にバカばかりなのだ。

 

懲りないDishonest Abe

Dishonest Abeは2014年10月、国際法曹協会(IBA)が東京で開催した年次大会に招かれ、その場で「法の支配」について演説したことが知られている。そこで、「法の支配」は西洋を起源とする用語だが、アジアでも同様の考えがあるとし、吉田松陰や聖徳太子の「十七条憲法」を持ち出しただけでなく、「法と正義の支配する国際社会を守ることが、日本の国益」であり、法の支配の実現に向け外交を展開する、とまでのべたという。Dishonest Abeは「法の支配」の考え方は普遍的だとし、「人類愛によって結ばれ、助け合う人間が、合意によって作っていく社会の道徳や規範。それが法です」と演説したのだという。

こんな人物が日本の首相をいつまでも務めていると、本当に日本は自壊してしまうのではないか。全体主義そのものが日本を覆い、ヒトラーのように壊滅する道をひた走ることになってしまうのではないだろうか。

まず、法は道徳や規範よりもずっと狭い領域にしかかかわっていないことを確認したい。「法の支配」という言葉は“rule of law”という英国圏の概念であり、その成立過程は“rights”の意味が、「正しさ」から「権利」(あることをするか、しないかという選択の自由にかかわる)に傾いてしまう時期に重ねて理解しなければならない。Rightsの意味の変容は、統治が「聖なる権威」から「俗なる権力」に移行した時期に呼応している。

法を意味するlawは、あることをするか、しないかをどちらかに決定する束縛を伴うものであり、その法が民主的手続きに則って制定されれば、その法が「正しい」ことを不可避的に内在することになり、法そのものへの懐疑の念を弱体化させ、法は束縛として人間を拘束することになる。しかも、この法は共同体を前提に制定されるものであって、神の命令としての自然法ははるか昔に忘れ去られ、人間がつくる共同体全盛の時代になってしまっている。

こここでの記述の理解にはヴァルター・ベンヤミンの鋭い指摘が参考になる。彼は、「暴力批判論」のなかで、「正しい目的は適法の手段によって達成されうるし、適法の手段は正しい目的に向けて適用されうる」というドグマをめぐって、「手段の適法性と目的の正しさについて決定をくだすものは、決して理性ではない」と指摘、「前者については運命的な暴力であり、後者については――しかし――神である」と述べている。「目的の正しさ」を決定する「神」がいなくなると、もう「正しさ」自体に真摯に向かい合うことがなくなってしまうのだ。

そうした状況変化のもとで、「法の支配」は「倫理」や「道徳」から逸脱し、「神」にとって代わろうとしてきた「国家」の都合のいいものなっていく。したがって、「法の支配」は決して「正しさ」を示していない。ゆえに、「法の支配」はまったく不十分なものでしかないのである。この点が決定的に重要なのだが、Dishonest Abeはこの点がわかっていない。

 

Dishonest Abe=Hitlerの悪夢

Dishonest Abeの「法の支配」への傾倒ぶりをみていると、このままではAbe=Hitlerを連想せざるをえない。

ここで、2017年7月10日に衆参両院で実施された加計学園に絡む参考人質疑のなかで、官僚が「記憶にございません」を連発したことを思い出そう。この情けない姿こそ官僚の本質をよく示しているのだが、この問題を分析するには、600万人とも言われるユダヤ人虐殺に手を染めたのが凡庸な官僚であったことを想起するところからはじめるのがよい。

具体的には、アルゼンチンに逃亡中、イスラエルの諜報機関によって逮捕された後、人道(人類)への罪などで有罪となり1962年に絞首刑となったアドルフ・アイヒマンを取り上げてみよう。彼は親衛隊の情報部ユダヤ人担当課に属していた「官僚」であり、ドイツの法に従ってユダヤ人の収容所送りという「命令」を執行しただけであったと主張した。いわば、事務処理をこなす官僚が数百万人を死に至らしめたことになる。ゆえに、政治哲学の泰斗、ハンナ・アーレントはこのアイヒマンの悪を「悪の陳腐さ(凡庸さ)」(banality of evil)と呼んでいる。法の遵守のもとで思考停止してしまう凡庸な官僚であれば、だれしもが同じ罠にかかり、他人の生命をまったく平然と奪うことに加担できるのだ。つまり、アイヒマンの主張通りであるならば、「法の支配」のもとでヒトラーの大虐殺が起きたことになる。そうであるならば、Dishonest Abeのいう「法の支配」のもとでも大虐殺が可能ということになる。

このアイヒマン裁判が提起したのは、「法の支配」という狭い範囲に従うだけでは、大虐殺といった悪夢にさえ立ち向かえないという現実であった。ゆえに、「法の支配」を超えた「倫理」をどう徹底させるかが人類に突きつけられたのである。

しかし、残念ながら、この日本ではアイヒマンと同じ陳腐な官僚が大勢いることが今回の騒動で明らかになったことになる。法を遵守するだけでその執行を思考停止状態で行う官僚がいまでもあちこちにいるという現実に、国民は愕然としなければならない。しかも、そうしたアイヒマンと同じ論理で行動する官僚を、Dishonest Abeは昇進させ、海外にかくまっている。まさに「Dishonest Abe=Hitler Abe」という恐ろしい図式が成り立つのである。おそらくこのままでは、海外の論調はDishonest AbeからHitler Abeに代わっていくのではないか。

もうDishonest Abeの周辺には、ここに書いたようなAbeの「法の支配」への大間違いを糺してあげる人物がいない。まさに独裁者Hitler並みの「はだかの王様」になってしまっているのではないか。

それにしても、ここで書いたような批判を日本のマスメディアはなぜ書けないのか。まあ、本当にバカばかりだからなあ。もっと勉強しろよ。

 

「正しさ」について

というわけで、「正しさ」についてもみなさんに勉強してほしいと思う。白川静著『字統』(p. 510)によれば、「正」は「一」(城郭で囲まれた邑)と「止」(足跡の形)を組み合わせた言葉であり、「都邑に向かって進撃する」という意味をもち、都邑を征服することにつながっている。「正」が多義化するにおよんで「征」がつくられる。「正」はもと征服を意味し、その征服した人々から貢納を徴収することを「征」と表すようになる。忘れてならないのは、重圧を加えてその義務負担を強制することを「政」ということだ。そして、そのような行為を「正当」とし、「正義」とするに至るのだ。ゆえに、本来、征服支配こそ、強者の正義であったのである。

このような経緯を知っていれば、「正しさ」なるものが強者の押しつけでしかないことがわかるだろう。「神」がいればまだしも、「神」がいなくなると、「神」たらんとする「国家」が勝手な「正しさ」を押しつけ、事態がますます悪くなっているのだ。だからこそ、人間は「法の支配」を「憲法」のような少しだけ強い「法」をつくり、国家の横暴を抑え込もうとしたわけである。Rule of lawの本家、英国では、憲法は不文法でしかなく、成分法としては存在しないのだが、

 

憲法改正議論への危惧

そこで、心配になるのは憲法改正議論である。バカばかりの日本では、まっとうな憲法改正議論が可能なのだろうか。第一に、「Dishonest Abe=Hitler Abe」のもとで、憲法改正議論をするというのは、第二ヒトラーのための制度をつくることにならないか。Dishonest Abeがもくろんでいるのは、憲法を改正し、憲法を含む「法の支配」だけを優先することで、アイヒマン流の人間を多数つくり出してヒトラーのように自分にひれ伏すシステムを構築することにあるではないか。「法の支配」の問題点もわかっていないDishonest Abeのもとでは憲法議論そのものをしてはいけないのだ。

憲法を含む法の支配といっても、それはまったく不十分な統治システムであることをまず忘れてはならない。法にしたがうことは大切だが、アイヒマンのような立場にあっては、断固として拒否するだけの「倫理」をもたなければならない。

この問題は究極的にはカントの主張に帰着する。すなわち、合法も違法も、「義務を果たす/果たさない」という同一の領域に属するだけであり、倫理は、この領域には収まりきれないのだ。「倫理は、法やその違反といった枠組みには収まらない」ことから出発しなければならないのである。それは、「義務が課されていた以上、それに従って行動しただけだ」という官僚的言い訳にどう立ち向かうかを問うものと言える。しかも、こうした言い訳は官僚という職業をもつ者だけでなく、現代を生きる大多数の者にとっての言い訳になっている。そうであるならば、憲法改正に取り組む前にまず、この問題に真正面から向かい合うできであろう。

実は、日本は憲法第九条に違反してきた国だから、「法の支配」が貫徹した国ではなかった。しかし、それはそもそも「法の支配」が倫理よりもずっと狭い範囲にしか通用しないものであることを知っていれば、大した問題ではないのである。もちろん、「法の支配」は無視できないから、憲法を「現実」に摺り寄せることで「法の支配」を貫徹してもかまわない。ただ、その場合でも、ここで指摘したような「倫理」の構築の問題は残る。憲法を改正するのであれば、「法の支配」そのものの弱点を認識して、そうした弱点を補強するために、憲法のなかに、「人道への挑戦と判断できる活動・行為や、国民の信認を裏切る活動・行為を情報開示や糾弾しても国家はこれを罰することはできない」といった項目を盛り込む必要がある。

さらに言えば、「株主」(委託者)-「取締役」(受認者)という信認関係において、株主を裏切り行為を受認者が行い、会社に損害を与えた場合、株主代表訴訟ができるのと同じように、患者と医師、選挙民と議員、官僚と国民などの間にも信認関係を認め、医師や議員、官僚が委託者の信認を裏切る行為をした場合、損害を受けた本人ないし国家などに損害賠償請求できる条項も憲法に盛り込む必要があるだろう。「法の支配」を盾に平然と嘘をついたり、突然記憶喪失になったりする官僚がいれば、信認関係違反で刑事罰を含めた犯罪行為として立件できるようにしなければならない。

たとえば、信認関係に反して、Dishonest Abeは自分の森友・加計事件への関与を隠蔽する目的で衆議院を解散し、100億円を超す国家予算を浪費させたことを名目に、その代金を国家に支払うよう裁判できるようにするのだ。

こんな考えをもつ筆者からみると、日本の憲法改正議論はほとんど茶番にすぎない。本当に、もっとよく勉強してから議論してほしいものだと心から思う。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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