来年に向けて:12月30日にIWJで話すこと
本日、12月30日午後3時から、IWJでインタビューを受ける。そこで、その準備を兼ねて、話す内容の一端をここで整理しておきたい。
『ロシア革命一〇〇年の教訓』
最近、つくづく、過去の研究業績をつぎの世代に受け継ぐことの重要性を感じている。そう、いまの学者や研究者が先行業績を軽視しすぎているために、その論文や論考があまりにも誤謬に満ちているからだ。そもそも、他人の論考を借用しておきながら、引用文献を示さない輩が多すぎる。
根本的なところで間違っていると感じるのは、ソ連の5カ年計画への理解である。拙著『ロシア革命一〇〇年の教訓』(Kindle版)には、つぎのような記述がある。
「計画と官僚制が深く関係していることは、計画が単なる経済問題ではないことを関係している。たとえば、塩川伸明はその著書『現存した社会主義』において、「計画経済」を経済体制のなかで論じているが、これには疑問符がつく。なぜなら「現代の独裁の下での新たな「計画経済」は、政治的要請の結果であり、経済上の必要によるものではない」からだ(Neumann, 1942=1998, p. 154)。ノイマンはつぎのように説明している。
「ロシアにおける経済発展の努力の根幹となるのは、「五カ年計画」である。その主目的たる社会主 義化の計画、大規模な産業化、軍事的専制の三者は極めて複雑に混り合っており、第三インターナショナルに参集した国外の追従者たちを迷わせた。それは特殊ロシア的な計画であり、巨大な規模をもちながら、目的において必ずしも明確ではない」(Neumann, 1942=1998, p. 155)。計画=経済体制といった、思考欠如の安直な分析しかできない塩川のような人物が日本のソ連研究を支えてきたところに日本の学術研究の至らなさがあるとはっきりと指摘しておこう。
もちろん、計画性はソ連の社会発展のために必要であった。だが、「全面的軍事化は、敵に囲まれた社会主義の祖国ソ連が生存し続けるための第一の前提条件と思われた」のであって、だからこそ、「能率的官僚機構の継続的努力を必要条件」としながら、計画の実現が求められたわけである(Neumann, 1942=1998, p. 153)。ただし、利子変動メカニズムが機能せず、物的生産物が不足しているもとでは、計画経済(planned economy)というよりも動員経済(mobilized economy)が存在したとみなすほうがより実情に適しているのかもしれない(Bell, 1991=2015, p. 168)。計画しようにも、まともな計画は不可能だからである。むしろ、ソ連は航空機、戦艦、戦車のようなものを生産するために、賃金や価格を制御しながら、物資を指定工場に配分して生産することに重心をおいていただけなのではないか。この点は第2章で詳しく論じたい。」
あるいは、つぎのような文章も書いておいた。
「一九二七年までの段階では、国防政策の議論は国防組織と政治局、省庁間動員委員会、政府内の労働・国防評議会で行われていた。同年二月、ルィコフがトップを務めていた政治局内の国防委員会が廃止され、政治局は新たに国防委員会(その後、労働・国防評議会に従属)を創設し、原則として毎月、会議を行い、最初の五カ年計画策定時の主要な軍事上の意思決定を主導した。一九二八年からスタートさせようとしていた五カ年計画のための準備を意味している。この国防委員会の仕事は、戦時における経済全体の計画作成、国防上の必要の五カ年計画へのリンク、労働・国防評議会向けの経済動員・戦闘に関する疑問の分析、動員上の必要を請け合うための個別の部門計画の調整である。
同月、国防産業を来る戦争にどう対応させるかが議論となり、国防産業に関する最終決定の立案が同月に設立された政治局の特別の委員会に委託された。サミュエルソンによれば、「スターリンはすでにこのとき、経済システムは「不可避の」戦争に従属させなければならないとの軍の見解を採用していた」という(Samuelson, 2000, p. 39)。
政治局は一九二七年五月、軍事力と国防計画に関するトップシークレットの決定を採択した。その内容は不明だが、ソヴィエトの工業が国防向けに十分な資源を供給できずにいることを認め、それが軍事予算の増加につながったとみられている。さらに、経済最高ソヴィエト内に動員計画部が、また国家計画委員会(ゴスプラン)内に国防部門が設置された。前者は国防産業の再組織化や発展のための長期計画に従事する。後者の決定は一九二七年六月に労働・国防評議会の運営会議決定として決められたもので、トハチェフスキーが主導したものである。彼は参謀長として、参謀部が戦争計画や軍動員を準備するだけでなく、軍の動員と国の経済動員との間の連携にもかかわることを提案しており、このためにゴスプラン内に国防部門を設置、軍の要望を反映させやすくしようとしたのだ。
戦争計画の存在
ゴスプランの国防部門は国防にかかわるすべての仕事を包含するように拡大された。その仕事は、第一に、戦時のすべての経済計画の立案であり、第二に、動員計画を起草するすべての経済人民委員会委員間の調整であり、第三に、戦争計画、同じく、軍の長期再編改革と経済五カ年計画や十五年計画との調整である。その作業は、五カ年改革、年次国防産業計画、戦争の最初の一年の緊急事態計画にかかわっていた。一九二七年と一九二八年の間に、ゴスプランは四つの異なる緊急事態戦時計画を仕上げた。だが、軍当局は戦時の軍事上の必要を決める軍の役割を制限しようとしたゴスプラン国防部門の提案に強く反対する。結果として、戦争の最初の一年のための計画は政府によって承認されたわけではない。
一九二七年十月、軍の人民コミッサールであったクリメント・ヴォロシーロフはゴスプラン議長らに書簡を送り、そのなかで、赤軍・革命軍事委員会は戦時一年目の年次計画草案を支持することを明らかにした。ただ、労働・国防評議会がどのようにこの計画草案を処理するかについては疑問を呈していた。
五カ年計画(一九二八年十月一日~一九三三年十月一日)は一九二九年四月になって全ソ共産党の会議で採択され、翌月、第十回ソ連ソヴィエト大会で承認された。もっともトハチェフスキーの評価は厳しいものであった。「戦争の最初の時期における産業全体のコントロール機関がないのと同じく、経済最高ソヴィエトの動員計画部から産業動員計画をなくしたのは、国防上の要求から一九二七/二八年の産業・財政・生産の計画を評価することを難しくしている」というのが彼の見方だ(同, p. 67)。
サミュエルソンによれば、五カ年計画における軍事的考慮はつぎの三つの「次元」に要約されるという(同, pp. 75-76)。第一は、高品質の鉄鋼、非鉄金属、化学品の生産の急拡大であり、第二は、自足的なソヴィエト機械生産への可能な移行、第三は、軍事的配慮によって基本的に導かれた、重工業や国防生産のための立地パターン、すなわち、それらを戦地や長距離爆弾の射程外におくことであった。フィッツパトリックも、「工業化がソヴィエト政権のトップ優先事項となった」と指摘したうえで、五カ年計画が鉄鋼に焦点を当てていることに注目している(Fitzpatrick, 1985, p. 130)。
カーとデイヴィスは、五カ年計画がゴスプランの穏健派と経済最高ソヴィエトの過激派との対立の結果、もたらされたと解釈している(Carr & Davies, 1969)。しかし、サミュエルソンは、五カ年計画への影響が①ゴスプランおよびその国防部門、②経済最高ソヴィエトとその動員計画部(戦争・産業部)、③軍当局の三つからもたらせたと主張する(Samuelson, 2000, p. 77)。五カ年計画の策定をめぐって、ソ連内部で対立があったのはたしかだ。ただ重要なことは、五カ年計画が決して経済だけの計画ではなく、軍事との関連で関係機関との紆余曲折を経て誕生した事実にある。だからこそ、ロシア革命後の戦時共産主義時代から五カ年計画の時代に入っても、軍事面の影響力が大きかったとみなすべきなのだ。」
国家発注の重要性
IWJのインタビューのなかで、私は「いまのロシアの国家発注体制がロシアの戦時経済体制を支えている秘密の一つである」と語ろうと考えている。この重要性に気づいているのは、私の知る限り、ジュリアン・クーパーだけである。それは、彼のMilitary Production in Russia Before and After the Start of the War With Ukraine, 2024を読めばわかるだろう。
国防発注制については、拙著『ロシアの最新国防分析』(2016年版)に詳述したので、ここでは繰り返さない。
重要なのは、そもそもソ連の5カ年計画が軍事計画優先のなかで形成されてきたという事実だ。これは、現在のロシアの戦時経済体制を理解するには、ソ連時代の軍事優先の経済体制への理解が不可避であることにつながっている。したがって、拙著『ロシアの軍需産業』(岩波新書、2003)および『「軍事大国」ロシアの虚実』(岩波書店、2009)を読まなければ、ロシアの現状を決して理解できないと書いておきたい。
しかし、残念ながら、こうした理解そのものがいまの学者や研究者に伝承していないことを残念に思う。もちろん、私の不徳の致す結果でもあるのだが、もっと重要なのは、いまでもイデオロギー対立を引きずっている日本の「学界」の偏狭さや、不誠実な教員があふれているという現状だ。そして、彼らは総じて不勉強極まりない。
真の学者に求めること
IWJで語りたいのは、ここで書いた「嘆き」ではない。学者としての心構えのようなことである。ドナルド・トランプ新政権が発足すれば、経済安全保障なる視点から、日本も中国との「デカップリング」、すなわち、サプライチェーンの脱中国化を迫られるようになるだろう。それは、軍備や軍事装備品などの調達システムをどう構築するべきかという問題を惹起する。
その際、参考になるのがロシアの国防発注制であることに気づいてほしいのだ。その昔、岸信介が商工省工務局長から 1936 年満洲国国務院実業部総務司長、1937 年 7 月産業部次長、39 年 3 月総務庁次長として、「満洲産業開発5カ年計画」に取り組んだことを思い出してほしい。この5カ年計画はソ連の模倣であった。岸は臆面もなく、ソ連の5カ年計画を模倣し、それが満州の産業化に一定の効果を示したのは事実である。
だが、真の学者であれば、このとき、岸が「満洲産業開発5カ年計画」を策定する際、軍事計画との折り合いをどこまで考慮していたかについて調査・研究すべきだろう。彼は、ロシアの5カ年計画が単なる工業化のための計画ではなく、軍事化のための計画であったという本質を見極めていたのかどうかを丹念に調べ上げるのだ。当然、武器製造のための調達制度がどう位置づけられていたかも調査対象となる。
いずれにしても、ソ連の5カ年計画を大胆に模倣した岸の前例に倣うとすれば、いま必要なのはロシアの国防発注制の徹底した研究ということになる。
アンチテーゼ
もちろん、私は国防発注制のようなものは好まない。だからこそ、国防発注制について熟知し、その問題点に精通し、そうした体制に抵抗するためにどうすべきかを考える必要があると言いたいのだ。
小林一三は商工大臣になることによって、政府の中央集権化による統制経済化に抵抗しようとした。それがある程度可能だったのも、彼が民間の経済人として経済の本質に通じていたからだろう。
必要なのは、国家のよからぬ動きを事前に察知して、その中身を詳細に吟味し、抵抗・攻撃するだけの胆力を養うことである。それが学者の醍醐味であると考える(そのうち書く予定だが、AIについての日本の学者やマスメディアの見識はあまりに低レベルにとどまっている。そう、いろいろな分野でお粗末な状況が広がっていることに気づいてほしい)。
しかし、残念ながら、いまの日本には、こうした思考ができる者自体があまりにも少ない。ゆえに、こうした者を少しでも増やすために、来年も微力を尽くしてゆこうと考えている。
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