池上彰を批判する

もう30年以上、『週刊文春』を欠かさずに購読している。そんな筆者にとって、「池上彰のそこからですか」なる連載は悩みの種だ。ときどき参考になることが書かれているのは事実だが、誤りやディスインフォメーションとおぼしき記述も多い。心配しているのは、多くの読者が騙されるのではないかということだ。

今回池上批判をすることにしたのは、筆者のとくに知悉する分野について書いている、「ロシア軍、ウクライナ侵攻?」なる記述があったからである(2021年12月23日号)。筆者からみると、ひどく不勉強でありながら、「よくもこんな文章が書けるな」という内容であり、批判せずにはいられないと感じたのである。こんな人物の連載をつづける『文春』にもあきれるが、日本全体の「頭脳の質」までもが急低下している以上、仕方ないのかもしれない。だが、少なくとも批判だけはしておこうと考えたのである。

なお、筆者の見解については、12月24日午後5時以降、「論座」において、拙稿「米ロ首脳会談をどう解釈すべきか:ウクライナをロシアにとっての「台湾」とみなすと見えて くる真の構図」がアップロードされる。これを読んでもらえば、池上の記事との「大きな差」を理解してもらえるだろう。

 

ウクライナ危機の本質を書かない不誠実さ

まず、強く感じるのは、池上の不誠実な姿勢である。池上の記述から紹介しよう。

「いったい何が問題になっているのか。そもそものきっかけは2014年2月のことです。ロシア寄りの姿勢を強めていた当時のヤヌコビッチ大統領の政治に反発した人々が首都キエフでデモを繰り広げ、これを弾圧しようとした治安部隊と突入した結果、ヤヌコビッチ大統領は失脚。ロシアに亡命しました。

 大統領が逃げ出した後、ヤヌコビッチが莫大な資産をため込んでいたことが判明。大統領の光大な自宅が一般に公開され、腐敗政権ぶりが明らかになりました。」

これを読んでも、不自然なところはないと思うかもしれない。少なくとも「事実」が書かれており、誤りはないと感じるかもしれない。しかし、こうした「事件」を伝えるときには、双方の当事者の立場から「事実」を剔出する必要がある。

池上の記述は、欧米の主要マスメディア報道に基づいて書かれているだけで、ロシア側の立場を「書かない」、あるいは「無視」することで、「事実」を歪めているのである。具体的に言えば、当時、米国務省次官補だったヴィクトリア・ヌーランドが主導した、ウクライナのナショナリストを利用した武力によるクーデターという側面をまったく無視しているのだ。

これこそ、「意図的で不正確な情報」、すなわち「ディスインフォメーション」に基づく「マニピュレーション」(情報操作)にほかならない。こうした姿勢は、少なくともジャーナリストとして、きわめて不誠実だと筆者には思われる。

 

ヌーランドによるマニピュレーション

池上は、この記事の最初に、ロシア軍が最大17万5000人を動員して本格的な軍事侵攻を計画しているとの情報が「ワシントン・ポスト」によって報じられたことを紹介している。これは正しい。だが、その真偽については何も語っていない。

これもまた、きわめて不誠実な姿勢である。筆者の論考では、この「ワシントン・ポスト」の記事がディスインフォメーションであると指摘しておいた。しかも、その発信源はヌーランドであると書いておいた。まあ、断言まではできないが、ディスインフォメーションであることは確実だ。

まともなジャーナリストであれば、情報の正確性について常に敏感でなければならない。「眉唾」とおぼしき情報であるときには、それを精査し、検討に検討を重ねなければならない。

拙著『ウクライナ2.0』において、筆者は、「ヌーランドらネオコンはユダヤ系の人脈を使って、Washington Post や New York Times などのメディアを 使って猛烈なロシア非難をはじめるが、時すでに「遅し」であった」と書いておいた。ここで、注意喚起しなければならないのは、いまでもユダヤ系の人々によるウクライナをめぐる報道によるマニピュレーションがつづいているという「事実」である。

そればかりではない。学問の世界でも同じことが起きている。ヌーランドはオバマ政権後にハーバード大学で教鞭をとっていたが、このハーバードにおけるウクライナ研究もまた、歪んでいる。さらに、その歪みが東大にもおよんでいる。「ウクライナ命」あるいは「ロシア憎し」のような輩がウクライナ研究をしても、そこには「真実」はない。

 

ソ連崩壊の裏側:「ベロヴェーシ合意」

池上は書かないことによって、「事実」を歪めたり、隠蔽したりしているようにみえる。「意図的」かどうかはよくわからない。善意に解釈すれば、不勉強であるために、一知半解のままに「ミスインフォメーション」(誤報)を垂れ流しているだけなのかもしれない。だが、そんなバカの書く内容が無批判に放置されてもいいとは思わない。

ここでは、「論座」の拙稿において、紙幅の関係から書けなかった重要な論点について説明してみたい。池上が知る由もない、重要な話である。

それは、ソ連崩壊の裏側についてである。おりしも、今月はソ連崩壊から30年になる。これについては、「論座」において、「ソ連崩壊から30年:「ロシア無頼」としてのプーチン」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2021112900001.html)という記事を掲載しておいた。ここでは、ソ連崩壊を決定づけた1991年12月8日、ポーランド国境近くのベラルーシにあるヴィスクリのロッジで開かれたボリス・エリツィンロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国大統領、スタニスラフ・シュシケビッチベラルーシ最高会議議長、ウクライナ共和国のレオニード・クラフチュク大統領による秘密会談を詳しく解説したThe Economistの記事(https://www.economist.com/christmas-specials/2021/12/18/why-russia-has-never-accepted-ukrainian-independence)をもとに、いわゆる「ベロヴェーシ合意」について解説しておきたい。

 

キエフ・ルスとしての3カ国

シュシケビッチが呼びかけ、エリツィンがクラフチュクを誘って開かれた会談において、ソヴィエト連邦の消滅と独立国家共同体(CIS)の設立を宣言した「独立国家共同体の設立に関する協定」、すなわち「ベロヴェーシ合意」が成立する。

まず、なぜこの3カ国なのかというと、ウクライナの「キエフがロシアとベラルーシの文化の発祥地であり、正教会の信仰の泉であると考えられていた」からである。それは、中世の連合体、「Kievan Rus」(キエフ・ルス)の伝統の結果であった。「キエフ・ルス(862-1242)は、現代のベラルーシ、ウクライナ、ロシアの一部に位置する中世の政治連盟である(後者はスカンジナビア民族のルスにちなんで名づけられた)。キエフ・ルスという名称は現代(19世紀)の呼称だが、「ルスの地」と同じ意味を持ち、中世のこの地域の呼び名であった。ルスはキエフという都市から支配していたので、「キエフ・ルス」は単に「キエフのルスの土地」という意味であった」という(https://www.worldhistory.org/Kievan_Rus/)。

この伝統があったからこそ、アレクサンドル・ソルジェニーツィンは1990年の段階で、「小ロシア人」(ウクライナ人)、「大ロシア人」、ベラルーシ人を結びつけている絆は、戦争以外のあらゆる手段で守られなければならないと主張していたのである。

 

三者会談での利害対立

なぜシュシケビッチがエリツィンに呼びかけたかというと、同じソ連の構成共和国であるロシアの大統領であったエリツィンにソ連解体と独立を納得させてベラルーシもその波に乗ってソ連からの離脱をもくろんでいたのである。

ウクライナは1991年12月1日に実施された国民投票において、1991年8月の独立宣言を92.3%の支持によって承認したばかりであった。ゆえに、ウクライナもソ連からの離脱が既定路線であり、ソ連崩壊はそれを着実にするから、ロシアを巻き込むことで是が非でもソ連を崩壊させたかったと推測できる。

この二人に対して、エリツィンは異なる立場にたっていた。ソ連を崩壊させてロシアの国家としての独立を確立することには賛成であった。問題は、そのあとである。ソ連崩壊後の国々をばらばらにしたままでは、核兵器をはじめとする軍備の管理上の離散・混乱が予想される。各国通貨問題など、多くの難問があった。だからこそ、エリツィンとしては、民主主義国家を集めた「連合」(union)というかたちで、ソ連から独立した国家を統制する体制を模索したが、明確な独立、つまり、ロシアの影響力の排除を主張するクラフチュクは強く反対した。その結果生まれたのが「独立国家共同体」というわけのわからない緩やかな連合体であったということになる。

 

ロシアにとっての「台湾」、ウクライナ

もちろん、この合意を知ったミハエル・ゴルバチョフを激怒する。とくに、ウクライナ人の母親とロシア人の父親の間に生まれ、ウクライナの歌を歌い、ゴーゴリを読んで育った彼にとって、ウクライナとロシアの分離は許しがたい暴挙と映っただろう。

当時の米大統領、ジョージ・H・W・ブッシュにとっても、悩ましい問題であった。彼は、1991年8月のソ連におけるクーデター直前の演説で、ウクライナの分離独立に反対していた。核兵器の管理に対する大きな懸念をいだいていたからである。その彼に対しては、ロシアの初代外務大臣アンドレイ・コズイレフはつたない英語を駆使して何とかエリツィンとブッシュを電話でつなげることができた。そして、「エリツィン大統領はブッシュ大統領に「世界最大の核兵器はCISの手にある」」と説明したという。

その後、7万人以上のロシア軍がウクライナとの国境に集結するという事態まで起きるが、1991年12月26日、ソ連最高会議がソ連の消滅を宣言するに至るのである。その前日、ゴルバチョフは大統領を辞任し、エリツィンらのもくろみ通り、CISが誕生する。

こうした経緯があるからこそ、いまでもロシア人のなかに、ロシアとウクライナが一体であるかのように感じている人が少なからずいることは事実である。だからこそ、筆者の論考で指摘したように、ウクライナがロシアにとっての「台湾」であるかのよう感じる人にとって、ウクライナへの武力侵攻という事態が正当化されることになる。中国共産党が台湾の武力による統一を正当化するのと同じ論理だ。

ここで指摘したようなことまで理解したうえで、今回の米ロ首脳会談をどう考えるべきかを検討しなければならない。池上のような皮相な解説では、こうした核心にまで迫ることは決してできないだろう。

(Visited 204 times, 1 visits today)

コメントは受け付けていません。

サブコンテンツ

塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

このページの先頭へ