「現実」を直視しないマスメディアへの批判

近く、ROTOBOの『調査月報』において、拙稿「中ロ協力を考える:「現実」は複雑だ」が公表される。久しぶりの論文だが、別に大きな理由があって書いたものではない。

執筆した理由は、自分に課題を課すことで、とにもかくにも考えてみようという自己啓発の一環のようなものだ。そこでは、2014年のロシアによるクリミア半島併合後の欧米中心の対ロ制裁によって、中国との関係強化に傾いてきたとみられているロシアと中国との協力関係が実際にはうまくいっていない「現実」を明らかにしている。

ウラジーミル・プーチン大統領も習近平国家主席も、中ロ協力が順調に拡大しているかのように喧伝する向きがある。しかし、その実、ロシア側には中国を警戒するムードが色濃く広がっており、それが中国人投資家に二の足を踏ませているのだ。

ここでは、拙稿を紹介するわけにはいかないので、別の話に転じたい。それは、「現実」を直視しないジャーナリズム批判という話だ。

 

「パンドラ文書」をめぐって

2021年10月、1970年代にさかのぼる1190万件の記録や文書が含まれた、全部で2.94テラバイトのデータをもつ、いわゆる「パンドラ文書」を、国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)が分析した結果が公表された。このパンドラ文書については、来月、「論座」に、拙稿「「パンドラ文書」の背景にある国家の傲慢さ」(仮題)が公表される。

この論考を進めていく過程で痛感したのが、筆者が目を通している欧米日のマスメディアが「現実」をみていないということだった。表面上、リークに基づいて、多くの政治家や著名人が脱税・節税のためにタックスヘイブン(租税回避地)を利用している実態を暴いてるのだが、タックスヘイブンと国家との「現実」や、国家間の「租税競争」、「租税協調」ないし「租税調和」の「現実」に対する認識が足りないのだ。

 

コモンローの「現実」

まず、いわゆるコモンローの「現実」に対する認識が不足している。タックスヘイブンはコモンローのもとで、英国を中心に生み出されてきたもので、そもそもその存在自体にまったく問題はない。タックスヘイブンが問題化するのは、多国籍企業や超国家企業と呼ばれる企業が世界中にビジネスを展開する過程で、タックスヘイブンを積極的に利用するようになり、それが各国の徴税減につながっているとの見方が広がったためだ。つまり、タックスヘイブン規制は国家の都合にすぎない。

もう一つ、本来、タックスヘイブンは脱税・節税だけでなく、投資拡大を促すという重要な機能を担っていたことを忘れてはならない。低い法人税の結果、手元資金が増え、それを再投資に回すことで、活発な投資が可能となるのだ。

拙稿に書いたことだが、「パンドラ文書」で重要なのは、国家間で進める課税強化の動きがうまくいっていないという事実を明らかにしたことである。その背後には、多くの腐敗した国家であっても、近代的な主権国家であれば、国家の名のもとに、多くの不正な送金を通じてタックスヘイブンを利用することが可能だからである。そうした国家は「人」によって運営されている以上、そうした人も法によって厳しく律されることが必要なのだが、〈法の上に人をおく〉コモンローの世界では、国家による「悪」がむしろ「正義」となってしまいがちだ。

これに対して、〈人の上に法をおく〉大陸法、すなわち、シヴィルローの世界では、ジャン=ジャック・ルソーが主張したように、特殊意志ではない、一般意志を具体化する、集合的な単一の人格としての公民が構成員として想定され、それが自発的に参加する結社(アソシエーション)としての政治体が主権国家であり、その主権に具体的に参画するのが市民ということになる。ここでの「社会契約」は主権者たる国家に統治権を譲渡する、垂直的な「統治契約」ではなく、「公民が公民となる」ための水平的な「社会契約」であり、市民は公民となることが前提とされている。ゆえに、市民という名で個々人の独善的な利益だけを優先し、それを民主主義という手続きを盾にして国民の総意とする英国や米国と異なって、フランスやドイツといった大陸諸国では、「公民」という立場に立つところに「正義」を考える必要が生まれるのである。

 

法体系の違いという「現実」

こうした法体系の違いという「現実」にマスメディアはもっと敏感でなければならない。この違いを理解していれば、あの安倍晋三が「法の支配」(rule of law)というとき、そこに〈法の上に人をおく〉コモンローの世界が広がっていたことに気づくだろう。彼にとって、法の上に安倍が君臨するのであり、公文書改竄などまったく問題ないことなのだ。

本当は、〈人の上に法をおく〉シヴィルローの世界こそ、望ましい。だが、〈法の上に人をおく〉コモンローの世界と、〈人の上に法をおく〉シヴィルローの世界とをマスメディアが区別できないでいる現状をみると、どんどんコモンローに基づく英米法体系が世界に浸食してしまっているように思う。

〈人の上に法をおく〉シヴィルローの世界では、国家といえども制度にすぎず、国家を隠れ蓑に人が好き勝手な権力をふるうことを抑止できる。この世界では、国家間の行政サービスを競争させて、腐敗が蔓延し、歪んだ縁故主義の広がった国家には納税せずに別の国家や国際機関に納税すればすむといった「租税競争」を持ち込むことが可能だ。納税者の側が納税先を選択できるようになれば、国家の横暴といった傲慢さは、少しは和らぐだろう。

だが、「現実」をみると、国家は「租税競争」を回避し、「租税協調」ないし「租税調和」の名のもとに、国家の徴税権を守ろうと躍起になっている。

2021年10月、OECDは、136カ国・地域は企業が負担する法人税の最低税率を15%とすることや、多国籍企業への課税権を自国から、たとえ現地に拠点がなくても多額の利益を得ている国に移すことに合意した。これこそ、「租税協調」ないし「租税調和」の典型だ。だが、これは強制的徴税権をもちつづけようとする国家の独善のなせるわざであり、〈法の上に人をおく〉コモンローの世界の延長上にある。あくまで人によって構成させる国家の権力を守ろうとしているのだ。

こうした「現実」は、近代化後の主権国家による支配そのものであり、21世紀には唾棄されるべき制度であると筆者は考えている。そんなところまで深く思考するためには、「現実」を透徹した目でよくよく凝視するすることが何よりも大切なのである。

 

 

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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