クルーグマンの正しい指摘は日本にもあてはまる
いろいろと忙しい日々がつづくなかで、本日、NYTにきわめて興味深い記事が掲載されていたので紹介したい。それは、経済学者ポール・クルーグマンの「アメリカ人の心を買うということ」(https://www.nytimes.com/2021/08/31/opinion/government-corruption.html)という記事である。
そこでは、まず、「われわれはだれも聖人ではない」というシンプルな事実が出発点となっている。われわれの行動は、しばしば個人的な報酬の見通しによって影響を受けることがあるという事実からみて、「保守的な経済学者がよく言うように、インセンティブが重要なのである」と指摘している。
この点をしばしば強く主張したのが米国の保守的な経済学者であり、その一人、シカゴ大学のジョージ・スティグラーは1971年に「経済規制の理論」(https://www.jstor.org/stable/3003160
)と題する論文を発表した。そのなかで、「発電量や価格設定のルールを決める委員会のような政府の規制当局は、プラトンの「共和国」に出てくる賢明で無私の守護者のような存在ではなく、人間であるがゆえに影響を受けやすく、実際には規制当局が規制すべき業界に取り込まれてしまうことが多いと主張した」のである。
この主張を利用して、「スティグラーの信奉者たちは、規制者は特別な利害関係者によって堕落すると主張し、規制に反対してきた」と、クルーグマンは指摘している。話の筋からみると、規制当局の「無私性」や「公平性」をどう担保するかというところにこそ重大な問題であるはずなのだが、カネというインセンティブが強く働く米国では、そういう話にはならなかったとうことだ。
クルーグマン自身は、「この論理はなぜ政府関係者だけに適用されるのか。とくに、自分たちの政治運動に適用してはどうか」とのべている。
「保守的な意見や思想の世界は、実際には主に買われた男性や女性で構成されている」
ここからが、クルーグマンの主張の真骨頂になる。彼は、「結局、規制当局に適用される論理は、規制を非難する右派を含む政治家や評論家にも適用されるはずである」としている。そして、「とくに、「正しい」意見を述べることで得られる報酬が、名声や昇進だけでなく、冷徹な現金の領域にまでおよぶような状況では、知識人にも当てはまるのではないだろうか」とつづけている。
筆者が感銘を受けたのは、この指摘につづいて彼が書いたつぎの文章である。
And as far back as I can remember, the world of conservative opinion and thought has in fact consisted largely of bought men and women.
直訳すると、「私が記憶している限りでは、保守的な意見や思想の世界は、実際には主に買われた男性や女性で構成されている」ということになる。
具体的には、まず、「運動保守主義」(movement conservatism)とクルーグマンが呼ぶ動きが広がった。億万長者や大企業の支援を受けて高度に組織化された一連の機関(Foxを筆頭とするメディア機関や、ヘリテージ財団などのシンクタンク)が設立された。「これらの機関は、正しいこと(減税は良いこと、規制は悪いこと)を言って船を揺らさない人たちのために、安全な空間、安定したかなり有利なキャリアを保証する場所を創出した」と、クルーグマンは記している。
しかし、そうした保守主義がいまでは、「選挙は盗まれたとか、基本的な公衆衛生対策は自由への不吉な攻撃だとか、明らかな嘘に忠誠を誓わなければならなくなっている」としている。
リベラル派も同じ
それでは、リベラル派はどうか。クルーグマンはつぎのように書いている。
There are plenty of prominent liberals who I know personally to be driven by ego and to some extent by monetary considerations, people like … actually, not going there.
つまり、「私が個人的に知っている著名なリベラル派は、エゴとある程度の金銭的配慮で動いている人が多くいる、たとえば……、いや、それはやめておこう」という。
そのうえで、「しかし、彼らは保守派とは違う環境で生きている」と、クルーグマンは主張している。その違う環境とは何かというと、それは、共和党と保守主義がイデオロギー的に一枚岩であるのに対して、「民主党や中道左派はゆるやかな連合体であり、その連合体のなかで繁栄するためには、複数の構成員を満足させなければならない。そのため、だれに魂を売るのかが明確ではないので、魂を売るのは難しい」というのだ。
別言すると、「左派の人たちは、どんなに政治に熱中していても、そしてどんなに自己中心的であっても、学術的な信用を保つ必要があると感じているし、コンサルティングをしている人たちにとっては、深刻なビジネス上の利害関係者との信用を保つ必要がある」という点で、大きな違いがあると、クルーグマンは考えている。ゆえに、つぎのように指摘している。
So the blend of craziness and corruption taking place on the American right is special, without anything comparable on the left.
すなわち、「つまり、アメリカの右派で起きている狂気と腐敗の融合は、左派にはない特別なものなのである」というわけだ。
日本に生じつつある狂気と腐敗の融合
紹介したクルーグマンの見解は日本にあてはめてみると、多くのことを気づかせてくれる。たとえば、Dishonest Abeを中心とする日本の保守派がカネによって強く結びついていることに気づくだろう。それだけではない。国会で「虚偽答弁」を118回も繰り返した人物が首相であった国で、この人物に公然と反旗を翻すことさえできない自民党議員はもはや「狂気」の集団と言えるのではないか。彼らを結びつけているのは、カネ儲けという利権にすぎず、そこには絶えず腐臭が漂っている。
もはやこの狂気と腐敗の融合は、米国と同じく、とんでもない主張につながっていくのではないか。「選挙は盗まれたとか、基本的な公衆衛生対策は自由への不吉な攻撃だとか」といった主張が登場するまで悪化するとは思わないが、「PCR検査は不要」だとか、「COVID-19はインフルエンザ並み」だとかいった主張が徐々に広がりをみせていることに危惧を感じている。
同時に、Dishonest Abeを中心とする保守派と結びついて、つまり、カネに目がくらんで、言論の自由をうたい文句にしながら、あるいは、「専門家」という衣をまといながら、平然と権力にすり寄る官僚、学者、マスコミ人が多数いる。その意味で、彼らへのカネの出入りについて敏感でなければなるまい。
同時に、米国の保守派と同じく、日本の保守派についても、「狂気と腐敗の融合」に気をつけなければならない。
「マヌケと腐敗の融合」
もちろん、左派にも同じようなことが言える。「エゴとある程度の金銭的配慮で動いている人が多くいる」というクルーグマンの指摘は日本の左派にもあてはまることを強調しておきたい。加えて、「どんなに自己中心的であっても、学術的な信用を保つ必要があると感じている」という人も少ないのではないかと、心配している。なぜなら、学会が「お仲間クラブ」に変容しつつあり、侃々諤々の議論の場になっていないように思えるからだ。学術的な信用なるものの「嘘さ加減」がもうバレバレなのだ。
とくに、学術論文の評価さえまともにできないようなマヌケな学者だらけになっているように思える。あるいは、現実のテクノロジーの急速な変化に追いつけず、あまり意味のあるとは言えない研究にしがみついているマヌケな連中も多い。
しかも、左派にもまた、自らの無能に気づかずに不勉強な輩が実に多い。左派はまだ、「狂気と腐敗の融合」といった深刻な状況にまで至っていないが、「マヌケと腐敗の融合」くらいの状況にはあるのではないか。
現状は袋小路にある。これを抜け出すには、自分自身を磨き、備えるしかない。そのためには、よく学び、よく考えることだ。とくに、テクノロジーによる変革がいまほど重大な影響を世界中におよぼしている時代はないのだから、学ぶべき対象はいくらでもある。
カネという誘因を全否定する気はさらさらない。だが、それだけではない何かを求めて、自分自身の短い人生を豊かに過ごすたゆまぬ努力をつづけるしかないと思う。死を意識する年齢になっても、その想いはまったく変わっていない。
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