備忘録 柄谷行人著『ニュー・アソシエーショニスト宣言』
いつものように、柄谷行人著『ニュー・アソシエーショニスト宣言』のなかで、わたしがメモとして残した部分をそのまま引用文献としてここに書き留めておきます。
p. 42
1990年の時点で、ソ連崩壊に関して、一般にはアメリカが勝利した、といわれていましたが、アメリカのヘゲモニーはむしろ没落する趨勢にあったのです。
p. 43
それを人びとは「新自由主義」(ネオリベラリズム)と呼び始めた。しかし、それは「自由主義」とはまったく別ものです。たとえば、アダム・スミスは自由主義理論の祖とされますが、彼が考えたのは、レッセフェール(自由放任)だけではなく、福祉厚生政策なのです。彼はレッセフェールが貧富の差をもたらすことを承知していた。だから、彼は倫理学者として、「同情」(シンパシー)を唱えたのです。
p. 74
実際、マルクスの考えた社会主義は、生産=消費協同組合を基礎に置いています。すなわち、労働者のアソシエーションによる生産が社会主義です。そこでは、労働する者が同時に経営者です。生産省同組合によってのみ、労働力商品(賃労働)が揚棄される。それは「国有化」とはまるで違います。国有の場合、労働者は国家公務員になるだけで、あいかわらず賃労働者ですから。国有は私有と同じ原理にもとづくものです。協同組合では、そのような私有が否定される。しかし、それは、マルクス自身の言葉で言えば、「個体的所有の再建」です。協同組合では、全員が経営者=労働者なのです。
p. 75
実は、株式会社と生産協同組合は類似しています。違いは、前者では、持ち株による多数決支配であるのに、後者では、持ち株の多寡にかかわらず、一人一票だということです(ロッジデール原則)。だから、現在の株式会社は、商法を変えれば、簡単に生産協同組合に変えられます。ロッジデール原則を採用すればいいわけです。たぶん、マルクスはそのような可能性をふくめて、株式会社を評価したのだと思います。
p. 76
スペインでバスク人が創った有名な生産協同組合、モンドラゴンがありますが、これも資本制企業との競争によって苦境に立たされています。
p. 77
韓国では、協同組合基本法(2013年施行)ができて、誰でも5人いれば協同組合が作れるようになった。おかげで、続々と組合ができて、今は4000以上になっているそうです。
p. 138
韓国では、5人いれば協同組合をたやすく作れる法律(協同組合基本法、2013年施行)を作ったんですよね。だから、協同組合が雨後の筍のようにどんどん増えた。私の読者であるロックグループが協同組合を作ったという話も聞きました。パンサム海賊団というのですが、そのメンバーの一人が兵役中に軍隊で『トランスクリティーク』を読んだらしい。それで協同組合がいいと思って、ロックグループを協同組合にしたという。彼らのことをネットで調べたら、日本に来て高円寺の松本哉(素人の乱)のところで公演しているのです。
p. 89
個人がしっかりと存在するためには、他の個人とつながることが必要です。それがアソシエーションですね。
アトム化した個人では何もできません。労働運動だけでなく、市民運動もできない。西洋の場合、自由都市はギルド集団のアソシエーションとして発展しました。つまり、都市はアソシエーションによって成り立っている。西洋ではそれが伝統としてあった、日本でも、16世紀の堺はそういう都市でした。しかし、それは徳川体制の下で壊された。
pp. 90-91
「大統領制化」する議会制民主主義
90年代に、日本では二大政党体制が壊れた。これは米ソの冷戦体制(二項対立)の崩壊にともなって、それに対応してきた日本の戦後政治、つまり自民党-社会党の体制が崩壊したということです。そこで、どうなったか。社会党が消滅しただけでなく、これまで複数の「派閥」から成り立っていた自民党も崩壊した。それは小選挙区制のせいだといわれています。実際、その通りですが、小選挙区制そのものに、それまでのシステムを否定する契機がふくまれていたとも思います。
このような変化は、欧米でも起こっています。その点で、私は『大統領制化』(トーマス・ボゲントケ他、ミネルヴァ書房)という本に説得されました。彼らは現行の議会制民主主義では「大統領制化」という現象が生じると主張します。簡単にいうと、それは、行政府の長(首相ないし大統領)が、議会(立法府)による制約から自立すること、また、政党が弱体化し、選挙過程が政党ではなくリーダー個人の人気に左右されるようになる、ということです。ちなみに「大統領制化」は、たんに議院内閣制においてだけ生じるのはない。大統領制のあるところでも同じです。たとえば、米国では、大統領は議会や支持母体の政党に規制されてきたのですが、レーガン以来、政党はもはや大統領を選出したり規制したりする力をもたない。その意味で、「大統領制化」したわけです。
p. 104
自治会、英語でいうと、カウンシル、ロシア語でソヴィエト、ドイツ語でレーテ
p. 116
よくSNS(Social Net-working system)によって、人びとのネットワークができるといわれていますが、これが生み出すのはアソシエーションではなく、その逆です。つまり、排外主義、ポピュリズム、怨恨・憎悪による連帯のスペースです。それは、交換Cがもたらす空間であり、また、交換Bが作り出す疑似的な共同体です。したがって、資本と国家を揚棄しようとするアソシエーションの運動にとって、障害となるものです。
p. 118
日本には市民社会がない。それはアソシエーションの伝統がないということです。したがって、デモをやるのは、労働組合や学生組織だけだということになる。2002年以来、私はその問題を考えてきました。
デモ=assembly 議会もassembly
p. 131
スマイルズの『自助論』(講談社学術文庫)についてもう一度いいますが、現在は、自助というと、失業は自己責任だ、社会福祉など不要だという新自由主義的な考えに導かれる。しかし、イギリスの自由主義は、新自由主義とはまったく違うものです。たとえば、自由主義の祖とされるアダム・スミス(1723~90)は終始倫理学者でした。彼の課題は、各自のエゴイズムを肯定するだけでなく、同時にそれによってもたらされる弊害を解決することにあったわけです。そこで彼はsympathyという概念を強調した。これは日本語では「同情」と訳されていますが、むしろ「共感」といったほうがいいでしょうね。
スマイルズが「自助」を唱えたときも、スミスと同じようなことを考えていたはずです。自助とは、エゴイズムを承認するとともに、相互扶助を促すものです。だから、今日、エゴイズムを肯定し追及するだけの新自由主義者が、スマイルズの「自助」を推奨しているのは、滑稽かつ醜悪です。
p. 132
「レッセフェール」というのは老子の「無為」の翻訳なんですよ。これを最初に訳した人は、イエズス会の宣教師、マテオ・リッチ(1552~1610)です。ところで、リッチの書いた本(漢語)を読んで翻訳し、また大いに活用したのが、国学者平田篤胤(1776~1843)です。篤胤は一神教と三位一体の考えを神道に取り入れた。
p. 155
日本人は9条を強制されたあとに、それを自発的に支持した。このことを、どう説明すればよいでしょうか。フロイトはこういっています。《人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれると考えがちである。しかし、それでは、倫理性の由来が不明なままである。実際には、その反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心というかたちで表現され、欲動の断念をさらに求めるのである》(「マゾヒズムの経済的問題」1924年)。
p. 164
私が気づいたのは、日本にデモがないのはアソシエーションがないからだ、ということである。
p. 170
日本人の「公共性」意識
和辻哲郎がデモのことを例にとったのは、日本における「公共性への無関心」ということをいいたかったからですね。彼はその原因を、次のような点に求めています。簡単にいうと、西洋においては、個人が城壁によって外界から区切られた都市共同体という公的空間の中で育まれるのに対して、日本では、個人は「家」の中にあり、公共性に対して無関心である、ということです。西洋においては、家の中でも、人は私的ではない。私的なのは部屋の中だけであって、廊下は公的である。ゆえに、部屋に鍵がかけられる。それに対して、日本人の「家」は、垣根に囲まれた私的空間である。
城壁の内部においては、人びとは共同の敵に対して、共同の力をもっておのれが声明を護った。共同を危うくすることは隣人のみならずおのが生存をも危うくすることであった。そこで共同が生活の基調としてそのあらゆる生活の仕方を規定した。義務の意識はあらゆる道徳的意識の最も全面に立つものとなった。とともに、個人を埋没しようとするこの共同が強く個人性を覚醒させ、個人の権利はその義務の半面として同じく意識の前面に立つに至った。だから「城壁」と「鍵」とは、この生活様式の象徴である(『風土』)。
「家」を守る日本人にとっては領主が誰に代わろうとも、ただ彼の家を脅かさない限り痛痒を感じない問題であった。よりまた脅かされても、その脅威は忍従によって防ぐ得るものであっ
p. 171
た。すなわちいかに奴隷的な労働を強いられても、それは彼から「家」の内部におけるへだてなき生活をさえ奪い去るごときものではなかった。それに対して城壁の内部における生活は、脅威への忍従が人から一切を奪い去ることを意味するがゆえに、ただ共同によって争奪的に防ぐほか道のないものであった。だから前者においては公共的なるものへの無関心をともなった忍従が発達し、後者においては公共的なるものへの強い関心関与とともに自己の主張の尊重が発達した。デモクラシーは後者において真に可能となるのである。議員の選挙がそこで初めて意義を持ち得るのみならず、総じて民衆の「輿論」なるものがそこに初めて成立する。(同前)
和辻は、日本人が公共的なものに無関心であり、その意味で「私的」であるというのです。私的ということと、個人的ということとは別です。西洋の場合、公共的なものへの関心が、逆に、個人性を強くする。一方、日本では、個人が弱い。日本ではよく、個性を尊重せよといわれますが、それは私的なものを重視するという意味です。したがって、個人としては弱い。そこで、自由都市とか染み社会とかいうと、私的個人から考えることになりがちです。しかし、ヨーロッパの都市は、ギルドや同業組合のような集団から成り立っています。要するに、都市というのは、たくさんの個人の集まりではなく、同業組合のような集団の連合体としてあったのです。そのような連合体、ネットワークの総体が都市である。個人はその中に育つ。だから、公共性に対して無関心な個人などありえないのです。
ついでにいうと、和辻は日本を西洋と比較しているだけでなく、中国とも比較しています。彼の考えでは、中国の社会は、民間の同郷団体の連合としてある。国家はその表層にある、ただの官僚組織にすぎない。《シナの民衆は国家の力を借りることなくただ同郷団体の活用によってこの広範囲の
p. 172
交易を巧みに処理して行った。従って無政府的な性格はその経済的統一の邪魔にはならなかったのである。シナの国家と言われているものはこういう民衆の上にのっている官僚組織なのであって、国民の国家的組織ではなかった》。
もちろん今の中国はだいぶ変わりましたが、ある点では、基本的に変わっていないと思います。たとえば、現在の中国は共産党による強力な国家的統制にもとづいているように見えますが、その経済的な強さはむしろ、客家・華僑など国家の力によらない世界的なネットワークによると思います。中国を見るとき、この両義性に注意する必要がある。日本とは違います。
p. 175
日本では個別社会が弱い、中間勢力が弱い、それが中央集権化を可能にした。しかし、同時に、それが個人を弱くした、ということです。もちろん、それは個人主義がまったくないということを意味するのではありません。たとえば、和辻哲郎がいったのは、次のようなことです。近代日本に個人が
p. 176
ないのではない。ただ、その個人は家の中にしか関心をもたない。公共的関心をもたない、ということです。つまり、そのような個人は「私的」なのです。
しかし、この点についても、丸山眞男は深い洞察を示しています(「個人析出のさまざまなパターン」『丸山眞男集』第九巻)。彼は伝統的な社会(共同体)から個人が析出される(individuation)際のパターンを、図のようなマトリックスで考察しました。それは、近代化とともに生じる個人の社会に対する態度を、結社形成的associativeと非結社形成的dissociativeというタテ軸と、政治的権威に対する求心的なcentripetal態度と遠心的なcentrifugalな態度というヨコ軸による座標において見るものです。その結果、図のように、四つのタイプが考えられる。
(2) |
(1) |
自立化 |
民主化 |
individualization |
democratization |
(3) |
(4) |
私化 |
原子化 |
privatization |
atomization |
簡単にいうと、①の民主化した個人のタイプというのは、集団的な政治活動に参加するタイプです。そして②の自立した個人のタイプというのは、集団的な政治活動からは自立する。しかし同時に、結社形成的である。つまり、政治を拒否しているわけではなく、いざとなれば、参加するけれども、ふだんは特別に政治的な活動はしないというようなタイプですよね。したがって、①のほうはだいたい中央集権を通した改革を志向するけれども、②のほうは市民的自由の制度的保障に関心をもち、地方自治に熱心である、ということになります。
p. 177
次に、③は私化したタイプで、これは①の民主化タイプの反対ですが、②とも違います。③はいわば、政治活動を一切拒否して、私的な世界に立てこもるというようなタイプです。つまり和辻の言葉でいえば、垣根の内側にしか関心がない。文学でいうと、これは「私小説」ですね。
次に、④の個人は、③と同様に、政治的・集団的なものから切り離されたあり方ですが、③と違って、私的な核もなく、大衆社会の流れのままに浮動するような個人です。丸山眞男はこう書いています。《私化した個人は、原子化した個人と似ている(政治的に無関心である)が、前者では、関心が私的な事柄に局限される。後者では、浮動的である。前者は社会的実践からの隠遁であり、後者は逃走的である。この隠遁性向は、社会制度の官僚制化の発展に対応する。(中略)原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである》(同前385頁)。
p. 182
以来、現在にいたるまで、③と④が支配的です。つまり、私的であるか、アトム(原子)的である。しかし、これを、大衆社会・消費社会に一般的な現象として見ることはできません。それはどこでも先進資本主義国では見られる現象ですが、何度もいうように、それに還元してしまうことはできません。
この原因はやはり、日本の近代の歴史の特異性、つまり、中間集団、個別社会を滅ぼすことで成立した、近代国家の歴史に求めなければならないと思います。そして、それは明治時代だけの現象でなく、1990年代まで続いています。この間、さまざまな個別社会が、古い勢力、国家・国益を脅かす要素として、次々と非難され制圧されてきました。たとえば、労働組合(国労や日教組)、創価学会、部落解放同盟、朝鮮総連、大学(教授会)の自治――。そのような非難は、グローバリゼーションというスローガンの下でなされたのです。2000年の時点で、こうした個別社会、中間勢力はほぼ壊滅してしまいました。その上に、首相小泉純一郎が登場し、彼に対するあらゆる抵抗を「守旧派」として
p. 183
否定したわけです。
p. 186
代議制が寡頭政ないし貴族政だということは、今日、かえって露骨に示されています。たとえば、日本の政治家の有力者は、二世・三世、あるいは四世です。彼らは、各地方の殿様のようなものです。
p. 187
その点では、徳川時代と変わらない。むしろ、徳川時代のほうがましでしょう。徳川時代では、世襲といっても、実質的に養子制にもとづいていたからです。また、幕府の老中は、藩の規模・ランクよりも大名の個人的能力にもとづいて選ばれていた。それに比べて、現在の代議制はどうか。未曾有という字を読めない首相がいる。未曾有の事態です。もちろん、字が読めても同じことです。官僚が考えたことを読むだけですから。官僚を攻撃して喝采を浴びる政治家がいますが、結局のところ、別の官庁や官僚が決めたことに従っているにすぎない。ゆえに、現在の日本は、国家官僚と資本によって完全にコントロールされている。だから、専制国家だ、というべきです。
では、専制国家から出るためにはどうすればよいか。一言でいえば、代議制以外の政治的行為を見いだすことですね。繰り返しますが、代議制は代表者を選ぶ寡頭政です。それは民衆が参加する民主主義ではありません。参加的民主主義は、議会だけではなく、議会の外の政治活動、たとえば、デモのようなかたちで実現されると思います。議会選挙があるのだから、デモで政局を変えるのは、民主主義的でない、という人たちがいます。しかし、代議制だけならば、民主主義ではありえない。実際、アメリカでも、デモが多い。選挙運動そのものがデモのようなものです。デモのような行為が、民主主義を支えるのです。
p. 188
では、日本人は、個人として弱いのか。そのようなメンタリティなのか、といえば、違うと思います。どの国でも、集団から切り離された個人は弱い。それに対して、「個人と国家の間にある自主的集団」、つまり協同組合・労働組合その他の種々のアソシエーションに属している個人は、強いのです。たとえば、日本人は、海外で、日本人同士集まるといわれる。しかし、違いますね。むしろ、日本人は連帯することを嫌い、外国に同化しようとする。ゆえに、個人としても弱いのです。何があっても泣き寝入りになりやすい。他の国から来た人たちはそうではない。固く結束する。だから、個人としても強いのです。
②のタイプ、つまり、結社形成的な個人は最初からいるのではない。むしろ、結社の中で形成されるものです。つまり、②のタイプは、たんなる自民ではなく、何らかのアソシエーションに属しています。一方、私化した個人は相互に孤立しているから、政治的には脆弱であるほかない。
p. 189
「アセンブリ」とは何か
あらためていいますが、日本人がデモに行かないのは、大衆社会や消費社会のせいだという人がいるし、また、ネットなどさまざまな政治活動・発言の手段があるという人がいます。しかし、それは先進国一般に当てはまるものであって、日本の状況をとくに説明するものではない。たとえば、もともと②のタイプ(結社形成的な個人)が多いところでは、インターネットは結社形成を助長するように機能する可能性があります。しかし、日本のようなところでは、インターネットは「原子化する個人」のタイプを増大させるだけです。
匿名で意見を述べる人は、現実に他人と接触しません、一般的にいって、匿名状態で解放された欲望が政治に結びつくとき、排外的・差別的な運動に傾くことに注意すべきです。だから、ここから出てくるのは、政治的にはファシズムです。しかし、それは当たり前なのだから、放っておくほかない。ネット上、とくに匿名で、人を説得しようなどとしてはいけない。場所あるいは構造が、主体を作るのです。その証拠に、匿名でない状態に置かれると、人は意見を変えます。
ゆえに、現代の日本の状態を、社会学的な観点から説明することは間違いです。これは政治的な敗北がもたらした専制国家の状態だと見るべきです。そして、そうであるかぎり、それを変えることができます。大事なのはそのことです。そのためには、われわれは個別社会、結社(アソシエーション)を作る必要がある。もちろん、それは何であってもかまわない。小さな寄り合い、連絡会議のようなものでもよい。それがないかぎり、個人は弱い。③か④になるに決まっているのです。
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