日本学術会議問題への異論:信頼できる「学者」がそもそもいるのか

2020年10月14日に「論座」のサイトに「日本学術会議騒動にみるもう一つの違和感:「気高い嘘」への疑問」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020101300004.html)を公表した。そこでは、かなり抑制したかたちで自分の考えをのべたつもりである。しかし、その分、わかりにくかったかもしれない。そこで、ここではもっと率直にこの問題の背後にある「似非学者」の正体について説明したい。

 

学会長が剽窃

とても恥ずかしいことだが、私が所属していたロシア・東欧学会の会長上野俊彦は他人の論文を盗む剽窃をした。「上智大教授、論文盗用か 学内紀要に発表、大学が処分」という記事(https://www.asahi.com/articles/ASJ507231J50UTIL05Z.html)が朝日新聞電子版(2016年6月1日付)に公表されている。この記事によると、「学内の紀要に発表した論文にほかの論文からの盗用があったとして、上智大学が外国語学部ロシア語学科の上野俊彦教授(62)を処分していたことがわかった。上智大によると、上野教授は学内調査に不適切な流用を認めたが、大学側は「解雇処分に至っていない事案は公表しない」として処分内容を明らかにしていない」という。

「こんな人が学会長をやっている学会ってどうなの?」とだれしもが疑問に思うだろう。こんな人物に教えを受けている上智大学の学生はさぞかし憐れだろう。

私は、上野が会長に選ばれた選挙で彼に投票したわけではない。私に言わせれば、優れた研究者とは呼べない人物を学会長に据える学会そのものに強く疑問を感じる。上野を会長に選んだ者に猛省を促したい。私は、この件が明るみに出てから、この学会を退会した。「バカ」の集まりに付き合いきれないからである。

もともとこのロシア・東欧学会は実務者を中心とする集まりで、小川和夫さんが長く学会長を務めていた。私が大学院生時代、彼がトップを務めるソ連東欧貿易会(当時)でアルバイトをしていた関係で、私は彼から大切なことを教えてもらってきた。The Economistを読みはじめたのもこのころだ。

こうした経緯から、小川さんには親近感をもつ私だが、ソ連崩壊後の激動のなかで、この学会に所属する日本共産党系の「学者」が増えるなど、変化があった。そうした過程で、能力のない者が権限だけを求めるといった悪弊が広がったのかもしれない。

 

比較経済体制学会も同じ

ロシア・東欧学会とは別に、比較経済体制学会なるものがある。私はこの学会にいまも所属している。といっても、こちらもひどい。私からみると、ろくでもない論文しか書けない連中が理事などの要職に就いて学会を牛耳っている。はっきり言って、「学者」としての能力がまったく反映されていない組織であると言わざるをえない。

偉そうに書いている私のことを言えば、私はロシアでもっとも権威ある経済学に関する学術誌の一つ、Экономическая наука современной Россииの編集委員を長く務めてきた。前任者は恩師、西村可明一橋大学経済研究所教授だった。ついでに、私は別のロシアの学術誌の編集委員も務めてきた。こんな私からみると、この比較経済体制学会に所属する「学者」の程度の低さに唖然とするばかりだ。ゆえに、来年あたりにこんな学会はおさらばしようと思っている。

 

権力闘争の場としての学界

こうした経験でわかったことといえば、「学者」といっても「バカ」が相当に多いことであり、イデオロギー対立を学会の場にまで持ち込んで、能力もないのに偉そうにしている「バカ」がきわめて多いという事実だ。とくに、日本共産党系とおぼしき人々は「徒党」を組み、仲間の論文を引用し合い、勢力の維持に余念がない。まさに、学会だけでなく学問の世界である学界そのものが権力闘争の場と化している。

その結果、何が起きているかというと、真に優れた「学者」が排除され、歯牙にもかけがたい「バカ」どもが偉そうな顔をするという奇妙な状況が生まれることになる。

これが日本の実態なのだ。そう思っている私から言わせれば、そもそも多くの「学者」が信頼できない。真実と向き合い、命を懸けて研究に励んでいる「学者」は一握りしかいないのではないかと思われる。

ゆえに、日本学術会議の任命拒否問題においても、がたがた文句や批判をしている人々の言い草に共感を覚えることはない。とくに、問題になっている6人が属す人文・社会科学系については、ここで紹介したようなイデオロギー対立が色濃く残っている。

私は、国家が学問にでしゃばることを好まない。ゆえに、国家主義的な「右」も、国家主導の計画経済を唱える「左」も、嫌悪している。この結果、「右」からも「左」からも嫌われている。

日本学術振興会の科学研究費にしても、研究内容を評価する「学者」の多くが「バカ」であるという現実がある。大した業績もない者が評価するという事態そのものがもはや学問を歪めている。そこには、後述するように「学問の自由」はないのだ。

残念なのは、こうした実態を多くの「学者」なる人々がひた隠しにして、あくまで偉そうに振舞おうとする不誠実な姿勢にある。大した業績もないままに「学者然」としている人々は糾弾されなければならないと心から思う。

今回の新型コロナウイルス騒ぎで、「学者」とか「専門家」とか呼ばれている人がいかにいい加減かをわかってもらえたのではないか。

 

「学問の自由」の嘘

最後に、今回の問題が「学問の自由」への侵害だと騒いでいる人々の嘘について書いておきたい。そもそも、「学問の自由」などない。多くの「学者」はもちつもたれつの関係のなかで、イデオロギーにしたがったり、出世欲にかられたり、カネにつられたりしながら、「似非学者」であるだけだ。「学問の自由」は、こうした窮屈な状況におかれている自分をよく意識したうえで、あえて不自由から逃れるために「跳ぶ」だけの勇気をもった者だけが感じとることのできるものなのである。

私は、『ロシアの軍需産業』(岩波新書)や『「軍事大国」ロシアの虚実』(岩波書店)で、ソ連やロシアの軍事について研究したことがある。だが、日本学術会議は「軍事研究」を抑制しろと言いつづけてきた。こんな組織は「くそくらえ」であると、私は思っている。理想論をほざいたところで、厳しい現実に迫ることはできないからだ。

若い人々に言いたいのは、「嘘」ばかりを平然と偉そうに言う人々の偽善に気づいてほしいということだ。私のように、本音ばかりを吐きながら生きるのは、結構、大変なのだが、だれが信頼にたりる人物かくらいは峻別できるようになってほしい。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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