もう「気高い嘘」(noble lies)から脱却すべきとき:日本学術会議の任用問題に思う
論座をみると、菅義偉政権による日本学術会議への6人の任用拒否をめぐって批判ばかりが目立つ。だが、筆者はこうした議論に冷淡である。なぜか。いくつか理由があるので、ここでのべてみよう。
国家と学問とのいかがわしい関係
第一に、国家権力と学問とのいかがわしい関係について、もっと真正面から向き合ってほしい。学問はカネがなくてもできる。にもかかわらず、日本学術会議は国家予算から10億円ほどのカネをもらって運営されている。筆者からみれば、国家と癒着した面をもつ同会議に倫理的な「痛み」を感じざるをえない。
近代化後の主権国家は軍事利用を目的とした学問への干渉だけでなく、感染症対策などの衛生面からの学問への介入を行ってきた。とくに、遅れて近代化した日本のような国では、国家による学問への干渉が国立大学の設立を通じて国全体を覆う。私立大学への補助金を通じて、政府による学問への干渉は末端にまで広がっている。
国家は国家にとって都合のいい事実を国民に教え込み、国家に奉仕する国民を育成して戦争まで起こした。敗戦後、こうした国家主導に教育が反省されたとはいえ、その本質は変わっていない。国家に都合のいい研究、国家を批判しないどころか、政権と癒着して研究費獲得につながる研究が重宝されるという傾向はどんどん強まっている。
これが「現実」なのだ。ゆえに、今回の出来事が「学問の自由」への侵害などと抗議するのは片腹痛いと言わざるをえない。ずっと前から、侵害は広がっているのであって、それに気づいてこなかったほうがおかしい。だからこそ、安倍政権時代の首相官邸が2016年の補充人事の選考過程で難色を示し、3人の欠員が補充できなかったとき、多くの人々はこの事態に気づかなかったのではないか。
日本学術会議の矛盾
1949年に内閣総理大臣の所管の下、政府か独立した職務を行う「特別の機関」として設立された日本学術会議は、1950年に「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明を出し、1967年には同じ文言を含む「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を発した。2017年には、「軍事的安全保障研究に関する声明」を出し、軍事的に利用される技術・知識と民生的に利用される技術・知識との間に明確な線引きを行うことが困難になりつつあるなかでも「軍事的安全保障研究」への取り組みに慎重さを求めた。
どうやらこれまでの日本の戦争への反省から、日本学術会議は自ら「学問の自由」に制限を課し、その一方で、主権国家からカネをもらいながら主権国家の「国防」に協力しない政策を取り続けてきたようにみえる。筆者はこれに矛盾を感じる。
筆者は2009年6月、『「軍事大国」ロシアの虚実』という本を岩波書店から上梓した。2003年には『ロシアの軍需産業』(岩波新書)も刊行した。筆者は「軍事目的のために科学研究」をしたつもりはないが、軍事問題への学術研究が日本において手薄であることに慨嘆せざるをえなかった。日本学術会議の「学問の自由」への規制が日本の軍事問題研究にブレーキをかけ、それが優れた先行研究の芽を摘んできたのではないか、と強く感じた。
以上から、今回の出来事が「学問の自由」の侵害とみなすのは誤っている。日本学術会議自体が「学問の自由」を侵害してきたのであり、筆者はその迷惑を被った被害者の一人なのである。
日本版DARPAの必要性
筆者は、拙著『サイバー空間における覇権争奪』(社会評論社、2019年)のなかで、米国のDARPAに注目し、つぎのように書いた。
「よく知られているように、インターネットをはじめとする現代の技術の多くが米国の軍事技術開発によってもたらされた。具体的に言えば、1957年10月4日のソ連による初の人工衛星発射成功に驚いた米国が翌年の2月7日に設立した、高等研究計画局(Advanced Research Projects Agency, ARPA)こそ、技術的遅れを取り戻そうとする機関であった(インターネットを誕生させたのは Arpanet プロジェクトとして有名だ)。同機関は1972年に「国防」意味するDefenseという言葉を付加された国防高等研究計画局(Defense Advanced Research Projects Agency, DARPA)に改称され、1993 年にARPAに戻された後、1996年から再びDARPAとなり、現在に至っている。」
そして、このDARPAこそインターネットや人工知能(AI)などの開発で大きな実績を残した。主権国家が科学技術の開発にカネを出すという実践は、米国の例をみるかぎり、ある程度成功している。だが、日本版DARPAが存在するわけではない。
たぶん、国家からカネをもらいながら、軍事研究に消極的な日本学術会議のような組織が「学問の自由」を侵害することで、日本版DARAP設立を阻んでいるのであろう。これでいいのかどうかについては、カネを出している国民が民主的に選択すべきことだろう。国家の科学研究へのカネの出し方について、しっかりと議論すればいいのである。
人文・社会科学の嘘
今回、任命を拒否された6人はみな第1部会(人文・社会科学)の推薦を受けた人たちだった。ここで強く感じるのは、人文・社会科学の「嘘」という問題に向き合う必要性だ。ここで思い出すべきなのは、「気高い嘘」(noble lies)というプラトンの教えである。
プラトンはRepublic(日本では『国家』と訳されることが多い)の第三巻のなかで、つぎのようにソクラテスに語らせている。
「我々は適切に用いられるべき偽りのことを先ほど語っていたが、そうした作り話として何か気だかい性格のものを一つつくって、できれば支配者たち自身を、そうでなければ他の国民たちを、説得する工夫はないものだろうか?」(414b8-c2)
この部分の英語訳はつぎのようになっている。
“Might we contrive one of those necessary lies of which we were just now speaking, so as by one noble lie to persuade first of all the rulers themselves, but if not that, the rest of the city?”
この“noble lie”こそ「気高い嘘」を意味し、プラトンはこれを肯定している。国にいる者のすべては兄弟なのだが、神は、支配者として能力のある者には、その誕生に際して、金を混ぜ与えたと主張し、支配者たる哲人統治者による“noble lies”を許容しているのだ。プラトンは「本当の偽り」と「言葉における偽り」を区別し、後者を人間にかかわる嘘として軽く扱っているのだが、神の存在が遠くなっている現在、嘘をこのようにみなす視角自体が間違っているように感じる。
なぜこんな話を紹介したかというと、2018年4月に米国のNational Association of Scholars(NAS)が公表した「近代科学の再現不可能性危機」(The Irreproducibility crisis of Modern Science)という報告書(https://www.nas.org/storage/app/media/Reports/Irreproducibility%20Crisis%20Report/NAS_irreproducibilityReport.pdf)を読んだからである。NSAは1987年に「科学の政治化」への危機感から設立された団体だ。この報告書の結論部分には、つぎのような指摘がある。
「近代統計学に基づく研究の欠点はわれわれをあまり驚かせないだろう。いまだにそうした欠点は大きな害をなしているし、科学自体の権力や有望さにおける信頼を傷つけている。われわれが必要としているのは、新しいインセンティブであり、新しい制度的メカニズムであり、そして科学が間違いうるすべての方法に新たに気づくことである。」
「科学の真理の探究が必要としているのは、科学の専門家の活動を精査し、批判することであり、かれらとともに近代科学の実践改革に取り組むことである。」
そのうえで、「あとがき」としてウィリアム・ハーパーはつぎのようにのべている。
「多くの科学者は自らを、多くのみじめさのなかにいる人々よりもずっと優れた哲人統治者(キング)であるとみなしている。みじめな人々は科学者がなぜ特別であるかや、みじめな人々がなぜ科学者に指示されたように投票すべきかを理解するのに困難な時代にある。2000年以上前、プラトンは哲人統治者というイデアを推し進めたが、同じく、「気高い嘘」という概念を称揚した。それは、懐疑的な住民が喜んで哲人統治者による支配を受けいれるように説得するためにデザインされたでっち上げである。われわれの現在の科学コミュニティはときとして統計学におけるより優れた訓練によってもとらえきれない問題を気高い嘘に訴えてきた。気高い嘘は再現不可能であり、科学の信用を損ねている。」
ここではもっぱら統計学への批判が書かれている。だが、その批判は人文科学や社会科学にもあてはまる。あるいは、統計学を多用する自然科学の分野にも同じことが言えるかもしれない。
筆者が言いたいのは、再現不可能な出来事に「科学」を見出そうとするような学問が実に多いという「現実」だ。こうした現実からみると、日本学術会議なる機関そのもののなかに、再現不可能性を伴う「気高い嘘」に基づく研究が少なからず紛れ込んでいるのではないかと懐疑せざるをえない。それが「科学の政治化」をもたらし、日本学術会議の名のもとに「学問の自由」への過度の干渉につながったのではないか。筆者には、そう思える。
大切なのは、「気高い嘘」を認め、科学の信用を回復し、科学が政府とどう向き合うべきかを国民とともに考えることではないか。
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