安倍晋三ことDishonest AbeとDishonest Bureaucrats

安倍晋三ことDishonest AbeDishonest Bureaucrats

安倍晋三首相、すなわち、Dishonest Abeは税金を投入した首相主催の「桜を見る会」をめぐって、きわめて不政治で不正直な答弁を国会で繰り返しています。この人物がdishonestであること、人間として最低ランクに位置することはすでに何度も指摘してきたので、ここでは内閣府を中心とするこの会を所管する役人らのdishonestぶりについて論じてみましょう。

わたしは拙著『なぜ「官僚」は腐敗するのか』でつぎのように書きました。

 

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2017年7月10日に衆参両院で実施された加計学園に絡む参考人質疑のなかで、官僚は「記憶にございません」を連発しました。この情けない姿こそ官僚の本質をよく示しています。この問題を分析するには、600万人とも言われるユダヤ人虐殺に手を染めたのが凡庸な官僚であったことを想起するところからはじめるのがよいと思います。具体的には、アルゼンチンに逃亡中、イスラエルの諜報機関によって逮捕された後、人道(人類)への罪などで有罪となり1962年に絞首刑となったアドルフ・アイヒマンを取り上げてみましょう。かれは親衛隊の情報部ユダヤ人担当課に属していた「官僚」であり、ドイツの法に従ってユダヤ人の収容所送りという命令を執行しただけであったと主張しました。いわば、事務処理をこなす官僚が数百万人を死に至らしめたことになる。ゆえに、政治哲学の泰斗、ハンナ・アーレントはこのアイヒマンの悪を「悪の陳腐さ(凡庸さ)」(banality of evil)と呼んでいます。法の遵守のもとで思考停止してしまう凡庸な官僚であれば、だれしもが同じ罠にかかり、他人の生命をまったく平然と奪うことに加担できるという点が決定的に重要です。

問題は、法を遵守するだけでその執行を思考停止状態で行う官僚がいまでもあちこちにいるという現実です。アイヒマンと同じ論理で平然と権力をふるう官僚が存在する。しかも、官僚がもつエリート意識が断固とした権力行使を行わせることになります。国会に登場するキャリア官僚というのがこの部類に属しています。凡庸であるがゆえに、「記憶にございません」と話すことになんのためらいも羞恥心も感じないのです。

それでは、凡庸な官僚が同じ過ちを繰り返さないようにするにはどうしたらよいのか。その答えは簡単ではありません。アーレント自身は、「法を守るということは、単に法に従うということだけでなく、自分自身が自分の従う法の立法者であるかのように行動することを意味するという」、ドイツでごく一般的に見られる観念に同調しているようにみえます。つまり、法の背後にある原則や法が生じてくる源泉へと自分の意志を同化させなければならないとアーレントは主張しているように思えます。ただ、ここでは官僚の遵法精神だけが問われ、倫理のような大切な価値観を軽視しているように感じられなくもない。

この問題は究極的にはイマヌエル・カントの主張に帰着します。すなわち、合法も違法も、「義務を果たす/果たさない」という同一の領域に属するだけであり、倫理はこの領域には収まりきれないというものです。「倫理は、法やその違反といった枠組みには収まらない」ことから出発しなければならないのです。それは、「義務が課されていた以上、それに従って行動しただけだ」という官僚的言い訳にどう立ち向かうかを問うものです。こうした言い訳は官僚だけでなく、現代を生きる大多数の者にとっての言い訳になっています。そこで問われるのは「人間力」のようなものであり、これを鍛えなければ、凡庸な官僚、凡庸な政治家、凡庸な民間人が増えるだけだと思います。

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ここで問題にしたいのは、Dishonest Abeをかばうような内閣府の官僚の情けないありさまについてです。なぜ倫理という、法に収まりきれない、人間として真っ当に生きるための規準に照らし合わせた発言が彼らにできないのでしょうか。それはおそらく、そうした人間としての行動の重要性を教えられることがなかったからではないでしょうか。凡庸な人間を育てることにしか腐心してこなかった日本の教育のまずさを痛感します。

はっきり言えば、公務員になる際、Dishonest Abeのような理不尽な政治家にどう接するべきか。国会での答弁でどう答えるべきかについての訓練が足りないのではないでしょうか。公僕として、国民全体に奉仕する観点から、あくまでhonestに行動したり、発言したりできないのであれば、公務員をつづける資格そのものがないのです。嘘や不誠実な態度をとること自体、それは公務員という職業からみても、人間そのものの行動規準に照らしても、決して認められません。

たぶん、「人間力のない、最低の輩が公務員や政治家を務めている現状を改革する」という必要があるのだと思います。別言すれば、凡庸な官僚、凡庸な政治家、凡庸な民間人のすべてについて、改めることが求められていると言えるでしょう。ようやくこの問題を報道するようになったテレビ番組をみていると、フジテレビの安藤優子なるキャスターのへらへらした態度が気になりました。こうしたバカがバカな国民をますます増長させているように思います。

それにしても、Dishonest Abeという最低・最悪の政治家をかばう理由がわかりません。自分の利益のために、選挙区の後援者をバス17台に分乗させて「桜を見る会」に招待し、公金で飲み食いさせるという「さもしさ」にはただただあきれるばかりです。政治をビジネスにしてきた政治屋にとっては、これが当たり前なのかもしれませんね。こんな世襲議員が自民党にはいっぱいいます。日本の政治は腐敗しきっているのです。そんな政治家、官僚を糾弾すれしないとすれば、もはやこの国には嘘と打算だけが蔓延することになるでしょう。

そして、何よりもDishonest Abeのような世襲政治家や凡庸な官僚を野放しにしてきた、かれらと同じレベルの国民に対して、怒りを覚えます。一番悪辣なのは、実は国民そのものなのかもしれません。同じ拙著のなかで、わたしはつぎのようにのべています。

 

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「民」は自分たちが目を潰された存在であることを知りません。白川静の『字統』によれば、「民」という漢字は「目を指している形」を表しています。「一眼を指してその視力を害し、視力を失わせることをいう」のです。つまり、視力を失ったことで自由を奪い取られた人、奴隷のような人物を意味しています。この「民」の由来は実によく「民」の本質を示しているように思われます。そうです。征服されて支配下に置かれた人々の唯々諾々と屈従する姿そのものを表しているのです。この事実を知っていれば、「民」が決していい意味合いをもっていないことに気づくでしょう。

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目を潰された国民の奴隷根性にあきれるばかりです。21世紀龍馬であれば、こうした日本の現実に気づくことが必要です。そして、いつか立ち上げるべきときがくるのではないかと思います。

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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