「裁かれざるは悪人のみ」

「裁かれざるは悪人のみ」

 

2018年7月4日に、「ロシア映画の勧め」をアップロードしました。そのなかで、アンドレイ・ズヴャギンツェフ監督の「裁かれるは善人のみ」という作品を観るように勧められた話を紹介しました。「リヴァイアサン」(Leviathan)という原題を「裁かれるは善人のみ」と日本語訳した2014年のロシア映画で、その脚本はカンヌ国際映画祭脚本賞に輝いています。

これは、ウラジーミル・プーチン大統領のもとで、権力者と法執行機関である警察、検察、予審委、裁判所、さらに連邦保安局(KGBの後継機関)ばかりか、教会までもが権力のヒエラルキーのなかに内部化・構造化されている「現状」を「リアル」に描いています。

その結果、善人であるがゆえに、権力者集団と対峙をせざるをえなくなり、訴えられるに至り、敗訴する。権力のネットワークが構築されているわけですから、最初から善人を陥れるために裁判手続きが利用されるわけです。

 

日本のDishonest安倍はプーチンにそっくり

日本のDishonest Abe(安倍晋三)はプーチンにそっくりです。その点については、このサイトに何度も書きました。それでも、いまの日本は「裁かれるは善人のみ」というロシアの状況まで悪くなっては、いないようです。

しかし、おそらく「裁かれざるは悪人のみ」という状況にはすでに至っているのかもしれません。公文書改竄をした官僚は無罪放免で、裁かれることさえありません。日大のアメフト部の事件も不問にされました。レイプしながら、逮捕直前に逃れた輩さえいます。あるいは、甘利明と元秘書は検察当局によって、あっせん利得処罰法違反罪での立件が見送られました。他方で、東芝の経営者は粉飾決算をしながら、取締役の忠実義務違反で逮捕・起訴されることもありませんでした。まさに、「裁かれざるは悪人のみ」といった状況になりつつあるように思えます。

はっきり言って、日本の検察は腐っています。安倍一味と「癒着」しているとみなされても仕方ないでしょう。

Dishonest Abeのひどさは、マスメディアの批判を封じ込める手法にも現れています。それは、プーチンとよく似ています。ロシアのテレビ局はすでに何年も前から、プーチン批判をできずにいます。ロシアテレビという国営放送がとくにひどいのですが、日本もNHKがひどい。ディスインフォメーションという、「意図的で不正確な情報」を流すだけでなく、安倍政権にとって不利益な情報は露骨に隠蔽されています。流さないわけです。

たとえば、日本銀行が株価や国債を買い支えている実態を報道しません。日本経済がアベノミクスによって回復したというのは大ウソです。公的資金の買い支えがなくなれば、日経平均株価は2万円を100%下回っていることでしょう。

嘘で固めたDishonest Abeであるにもかかわらず、マスメディアの及び腰によって守られているのが現状なのです。

 

「徹底した無関心」への対策

若い人々の政治への「徹底した無関心」が気になります。The EconomistのJuly 6th, 2019号では、保守主義の変容ぶりにスポットをあてています。保守主義というと、いわば現実主義で、理想を掲げて前に進むことを前提とする進歩主義とは違うというイメージがあります。The Economistでは、「保守主義であるということは、知らないことよりも精通していることを、試みされていないことよりも試みられていることを、神秘より事実を、可能なことよりも現実を、無限であるよりも限られていることを、遠くにあるものよりも近くを選好する」という、英国の哲学者、マイケル・オークショットの指摘が紹介されています。

わたし自身も進歩主義よりは現実主義に親しみを感じていますから、保守主義に親近感をいだいています。ところが、世界中でこうした保守主義が「ニューライト」と呼ばれる、ドナルド・トランプに代表されるような連中によって危機に瀕しています。同時に、「徹底した無関心」によって、そうした厳しい現状認識が無視され、それが結果として「ニューライト」に味方するという事態を引き起こしています。

どこの国でも、怒りにまかせて他国を罵倒するようなナショナリズムを支持するような人々は少数派ですが、ソーシャル・メディアを利用した「ニューライト」の巧みなディスインフォメーションは国民の疑惑や憎悪を駆り立て、さらに国民同士の分断を招くことに成功しつつあるようにみえます。

日本のように「同調気質」の強い国でも、少しずつ、声の大きい「ニューライト」の影響力が強まっているように思えます。「徹底的な無関心」を装う者に届くのは、こうした声高の「ニューライト」の声くらいしかありません。その結果、彼らはころっと騙されるという構図になりかねないわけです。

 

「れいわ新選組」への親和性

わたしはもう20年近く投票に行ったことがありません。バカな政治家にあきあきしていたのと、「清き一票」を投じることで、自分さえも穢れてしまうのではないかという危惧がそうさせてきたのだと思います。しかし、今度は投票に出向きたいと思います。Dishonest Abeだけは許すまいと固く決意したからです。比例区では、たぶん「れいわ新選組」に入れます。「新選組」は龍馬の敵ですから、こんな名前をつけた連中に一票を入れたくはないのですが、既存政党の奴らに入れるよりは「ましかな」と思います。

わたしは鈴木健(2013)『なめらかな社会とその敵:PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』(勁草書房)に影響されています。彼は「公」と「私」の対立のなかで、「共」のパラダイムがその二項対立にどこまで踏み込めるかという問題意識にたって、「共」の空間をコミュニティ(共同体)と想定し、その共同体内の分配メカニズムについて考察しています。そのなかで、貨幣、所有、投票はコミュニティ内の評判に応じて権利を分配するメカニズムとして構想しています。彼の主張は共同体から出発してその共同体を変えることで、「共」を共同体全体にまで押し広げる試みです。

コミュニティに対して、高い効用を与えた人が多くの購買力(権)、すなわち貨幣をもつことができます。所有については、生産物(プロジェクト)に対して、高い関与をした人が多くの利用権(ないし占有権)をもつ。投票については、コミュニティに対して、高い効用を与えられる人が多くの意思決定権(ないし名誉)をもつ――という具合です。そのうえで、彼は、貨幣、所有、投票にかかわる、個人、企業、国家、消費者、資本家、取引先、従業員、政治家といった概念がいわば、一連の連続的なスキームの特殊な状態を「ラベリング」したものにすぎないと指摘しています。問題は、こうしたラベリングを、「互酬のための評判システム空間全体における点」としてみることだという。

本来、これらの点は連続的につながっていたのですが、「言語の束縛」によってそれに気づくことができなかったのです。しかし、これらを点とみなせば、コミュニティにおいて互酬の評判システムをどう「社会契約」していくかという視点から、これらの点を統一的に考えることが可能になります。それは、人間が資本家であると同時に、消費者であり、政治家であると同時に市民でもあるという、現実の状況に対応しています。ここでの鈴木は、「共」の空間を広げることを短期的な目的とし、そのための具体的なメカニズムを構想していることになります。

他方、鈴木は長期的な課題として、「共」の空間であるコミュニティを超えたものへの移行を想定し、それを「なめらかな社会」と呼んでいます。それは、反俯瞰(世界全体を見渡すことをしない)、反蛸壺(自分の周りやコミュニティといった、ある特殊な範囲の内側だけをみない)、反コミュニティ(社会全体か中間集団か、俯瞰か蛸壺かといったゼロかイチかで物事をみない)、反最適化(共同体のなかで最適化することをしない)、反正義(いかなる絶対的正義も認めない)、反ゲーム(対等な関係間のゲームではなく、「距離」に応じたコミュニケーションに移行する)――というアンチテーゼを手がかりに構想されています。ここでの社会は共同体を越えたところ、共同体と共同体との間に位置づけられています。そこでは、共同体に属する人間ではなく、共同体から脱した単独者がかかわる世界が想定されているわけです。だからこそ、「単独者」たらんとする「21世紀龍馬」の心意気に呼応するのです。

こんな立場からみると、「れいわ新選組」は許容範囲に入るかなと思うのです。そして、絶対に相いれないのは、「なめらか社会」ではなく「ぎすぎすした社会」をめざすDishonest Abe一派ということになります。

 

 

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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