小泉進次郎は「慢心しきったお坊ちゃん」!?

「慢心しきったお坊ちゃん」は、スペインのホセ・オルテガが書いた『大衆の反逆』に登場する。オルテガは、「マス」を「平均人」(average men)ととらえ、「凡庸な人間」としている。彼は、この平均人で凡庸人でもある、マスを構成する人(大衆人)の心理的構造の特徴を三つ指摘している。

①生まれたときから、生は容易であり、あり余るほど豊かで、なんら悲劇的な限界をもっていないという根本的な印象をいだいている、②この支配と勝利の実感が彼にあるがままの自分を肯定させ、彼の道徳的、知的財産はりっぱで完璧なものだと考えさせる(この自己満足の結果として、彼は外部からのいっさいの働きかけに対して自己を閉ざし、他人の言葉に耳を傾けず、自分の意見を疑ってみることもなく、他人の存在を考慮しなくなる)、③彼はあらゆることに介入し、なんらの配慮も内省も手続きも遠慮もなしに、つまり「直接行動」の方式に従って、自分の低俗な意見を押しつけることになる――というのがそれである。

オルテガはこの特徴が「世襲貴族」にあてはまるようにみえて、実は大衆人にもあてはまると主張している。世襲貴族は生存の目標を発見し、生存の努力をつづける必要がないから、人格の輪郭がぼやけ、独特の愚鈍化、世襲の堕落が結集してくるのだが、大衆人にも同じ運命が待ち構えているというのだ。

そのうえで、オルテガは、「平均人=大衆人」が世界のなかにあり余るほど豊かな手段だけを見て、そこに潜む苦悩を見ず、すばらしい道具、卓効ある薬、未来ある国家を見出しながらも、薬や動議の発明の困難さを知らず、国家という組織の不安定さも気づかず、自分のうちに責任を感じることもほとんどないと指摘している。

 

「慢心しきったお坊ちゃん」のふるまい

こうした大衆人は「慢心しきったお坊ちゃん」のようにふるまう、とオルテガはいう。「お坊ちゃん」は家庭内では、あらゆることが結局は罰せられずすむ。家庭外での行為についても、多くが大目にみられる。ゆえに、「お坊ちゃん」とは、「家の外でも家の内と同じようにふるまうことができると信じている人間」ということになる。つまり、「したいことは何でもできると信じている」ので、義務と責任を免除してもらう自由もあると考える。ゆえに、「責任を痛感する」と何度繰り返しても、決して責任を果たさない。そんなものは免除してもらえると信じ切っているのだから。

実は、オルテガ自身はこの「慢心しきったお坊ちゃん」として、「科学者」を例示している。文明世界のまっただ中に突如現われた原始人、自然人、それが今日の科学者たちなのだというのである。それにもかかわらず、科学者は自分がたずさわっている宇宙の微々たる部分に関しては非常によく「識っている」が、それ以外の部分に関しては完全に無知である専門家に貶められている。つまり、「文明が彼を専門家に仕上げた時、彼を自己の限界内に閉じこもりそこで慢心する人間にしてしまったのである」と指摘している。

 

似た者同士が支える世襲

小泉進次郎衆議院議員は科学者ではないし、専門家でもない。むしろ、「世襲貴族」ならぬ「世襲議員」として、オルテガのいう三つの特徴にぴったりの「慢心しきったお坊ちゃん」そのもののようにみえる。それは、故安倍晋三や麻生太郎にもぴったりとあてはまっていると言えるかもしれない。

ここでは、「慢心しきったお坊ちゃん」=「世襲議員」とみなすことにしたい。この表現の的確さは、『週刊文春』(2024年8月29日号)の「小泉進次郎〝総理〟の重大リスク」を読めばよくわかる。まず、彼には複数の女性問題がある。「元復興庁職員とのホテル密会や女子アナとの二股疑惑」ばかりか、「人妻実業家A子さんとの不倫関係」もある。「A子さんとの逢瀬に利用した軽井沢プリンスホテルの宿泊代約十万円を政治資金から支出していた事実も判明している」という指摘もある。ほかにも、彼のポスターにある「印刷者:エムズクリエ」なる会社への多額支出疑惑もある。まさに、「慢心しきったお坊ちゃん」は「世間」を敢然と無視しているのだ。

 

人治主義に傾く「慢心しきったお坊ちゃん」

小泉進次郎のような「慢心しきったお坊ちゃん」は、先にあげた三つの特徴のうちの③にあたる、「あらゆることに介入し、なんらの配慮も内省も手続きも遠慮もなしに、つまり「直接行動」の方式に従って、自分の低俗な意見を押しつけること」を可能にすることを好む。ゆえに、自分の意見に耳を傾け、それを受け入れてくれる者を「仲間」とみなす。

自分の意見に反対したり、諫めたりする人物は「好ましからざる人物」として排除される。

「ブロック太郎」こと、河野太郎はXでの誹謗中傷や反対意見を遮断できる「ブロック機能」を利用している。よほど、諫言が嫌いなのだろう。まさに、「慢心しきったお坊ちゃん」らしい対応と言えるだろう。

思い出してほしいのは、海外から「ディスオネスト・アベ」(Dishonest Abe)と呼ばれている安倍が「お友達内閣」をつくったとして批判されてきたことである。これは人治主義に傾いていた安倍の本性を鋭く突いている。

人治主義の反対に当たるのは、法治主義である。それを支える官僚制は、能力主義をその基本としている。人治主義はこの能力主義を否定し、仲間の優遇、法律を無視した裁量政治を重視する。つまり、安倍の人治主義が官僚をも法律軽視に向かわせたのと考えられるのだ。一部の官僚は、安倍の「仲間」に入れば、能力に重点を置く法治主義を無視して裁量に任せた人治主義によって出世できると考えるようになる。だからこそ、佐川宣寿は、財務省の決裁文書の改竄を部下に命じ、その「論考行賞」によって国税庁長官に昇進したのであろう。

世襲議員は若いうちから、ちやほやされながら育つ。類が友を呼び、加計孝太郎のような友も集まるだろう。安倍昭恵には籠池泰典が友として集った。こんな人々は人治主義という言葉も知らないと思うが、少なくとも法律の重要性など眼中になかったのではないか。結果的に、彼らのお友達優先という考え方が人治主義を招き寄せ、法律を無視し、民主主義を崩壊へと導いているように思える。

 

人治主義は封建制時代

わかってほしいのは、人治主義は法を軽視した封建制の遺物であることだ。「慢心しきったお坊ちゃん」の世襲議員はほぼ全員、民主主義に基づく立法によって統治する法治主義を蔑ろにし、仲間内で前近代的な統治を許す方向を指向しているように映る。

皮肉なのは、彼らが人治主義者でありながら、平然と「法の支配」(rule of law)、すなわち法治主義を説いている点だ。安倍も岸田文雄も同じである。たぶん、小泉が首相になれば、まったく同じ古い統治を継続することになるに違いない。

 

身分関係と契約関係

ここでいう世襲議員は、議員という「身分」を何代にもわたって継承しながら、家業としての政治ビジネスで金儲けをたくらむ「政治屋」を意味している。そこで、2003年に刊行された講談社新書『ビジネス・エシックス』という本のことを思い出した。この拙著のなかで、「そもそも歴史的に考えてみると、「契約関係」以前には、封建制度のもとで「身分関係」が存在した」と書いておいた。

身分関係は血縁や世襲制といった血縁選択の重視に、契約関係は非血縁者間の贈与と返礼といった行動の重視に対応している。身分関係の場合、①関係を結ぶか否かについて、選択の自由がない、②身分関係の内容についても、選択の余地がない、③当事者の一方が絶対的な権力をもつ、④強者は弱者である相手の生存に配慮し、その生存に自分も依存している――という特徴をもつ。この関係が契約関係重視に取って代わられる原動力は「分業」であった。

この分析を逆に適応すると、日本では、政治にかかわる分業が不十分で、いまでの政治を家業とする者への斡旋・仲介・口利きといったビジネス分野が明確に残り、それが身分関係の存続に働いていると考えられる。それを強制しているのは、共同体に長くはびこっている「掟」(おきて)であり、掟破りには壮絶な「いじめ」が待ち構えている。この桎梏から逃れられない人々がいまでも大勢おり、彼らが「政治屋」の神輿を担いでいるのだ。彼らもまた、「お坊ちゃん」ないし「お嬢ちゃん」気質が抜けきれずにいる。

この分業制の不十分さは、世襲政治家が人治主義に染まっている事実によって証明できる。これは、世襲議員がその反対概念である法を中心とする法治主義を軽視していることに対応している。その結果として、官僚が法律を守らない事態まで招いている。そう、ズル賢い官僚は特定の世襲議員と入魂になることで、自分も世襲議員とともに法律を無視するようになるのだ。つまり、人治主義は近づいてくる人を好き嫌いのような基準で差別し、法律無視の裁量を重視するようになる。その結果、近代的官僚制度という分業制が毀損されてしまう。

 

大衆人たる国民の責任

立憲民主党の野田佳彦元首相は、8月29日、代表選出馬に際して、「やたら改革もどきを言っている、世襲の多い「金魚」たちに立ち向かっていく「どじょう」でありたい」と語り、「世襲の禁止」に取り組む意欲を示した。

この決意自体には賛成だ。しかし、議員の世襲禁止というと、すぐに「地盤、看板、鞄」という「三バン」のもとで、下駄を履いたまま政治を「家業」としている世襲議員への批判だけがクローズアップされる。あるいは、親の政治団体から子の政治団体への寄付を非課税で行ったり、毎年親が個人として、子の政治団体に年間2000万円まで非課税で寄付したりして、そもそも税金を支払っていないことが世襲批判につながっている。

しかし、本当に重大なのは、世襲という身分制をいまも是認している多くの日本国民にある。国民の一部はオルテガのいう大衆人かもしれないが、一般にイメージされる大衆人こそ、小泉のような「慢心しきったお坊ちゃん」を支えていることを忘れてはならない。「お坊ちゃん」や「お嬢ちゃん」気質の国民の責任も重いのだ。

 

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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