新著『君たちはどうだましだまされてきたのか:無知の責任』(仮題)あるいは『ジャニーズ騒動の教訓:洗脳から身を守る方法:無知の責任』(仮題)の原稿完成

すでに集大成を『知られざる地政学』〈上下巻〉で刊行してしまったので、これからは「教える」立場に立った書物を残そうと考えている。そのための一作となる原稿が本日完成した。これから出版社を探すことになる。

というわけで、ここでは、その「まえがき」部分を紹介してみよう。

 

 

 

まえがき

 

 太平洋戦争が終わって、「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという」と、映画監督の伊丹万作は『戦争責任者の問題』に書いている。そのなかで、彼は、本当は、「日本人全体が夢中になつて互いにだましたりだまされたりしていたのだろうと思う」と指摘する。

 これをジャニーズ事務所の創設者ジャニー喜多川による性加害問題に対応させるとどうなるだろうか。

 「多くの人が、ジャニーズ事務所にだまされていた」というのだろうか。そうだとすると、だれにだまされたのか。ジャニー喜多川だけにだまされたのか。その社員か。あるいは、ジャニーズ事務所に所属するタレントなる人物によってか。あるいは、こうした人々をテレビに出演させたり、コマーシャルに使ったりしてきたマスメディアや大企業によってか。

 こうなると、何が何だかわからなくなる。そこで、伊丹の分析をみてみよう。彼は、つぎのように書いている。

「多くの人はだましたものとだまされるものとの区別は、はっきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものでもはない。」

 こうのべたうえで、伊丹はつぎのように結論づけている。

「すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かったにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分かれていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になって互いにだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。」

 

 「相互作用」と「距離」に焦点を当てて考察する

 本書は、こうした「だましだまされる」という「相互作用」をめぐって考察する。種明かしをしておくと、この概念は、ドイツに生まれたユダヤ系の社会学者ゲオルク・ジンメル(1858-1918)の思想をもとにしている。英訳するとinteractionのことで、「相互行為」とか「相互作用」と訳されている。「ジンメルにとって、社会は個人と個人の相互作用によって成り立っており、社会学者は社会法則を追求するのではなく、こうした結びつきのパターンや形態を研究すべきなのである」というジェームズ・ファーガニスの指摘(Readings in Social Theory: The Classic Tradition to Post-Modernism, p. 146)通り、ジンメルは個人や小集団レベルでの社会的相互作用を考察し、そこで「距離」(distance)に注目した。

 家族のような小集団(共同体)では、個人と個人の間の距離は近い。ところが、会社や学校という共同体になると、相互の距離は離れてしまう。国家という共同体は個人からみると、多い存在だが、きわめて大きな影響をおよぼしている。この距離に注目するアプローチは、陸海空およびサイバー空間を考察対象とする地政学に親和性をもっている。このため、長年、地政学・地経学を研究している私にとって、ジンメルの思想はとても重要なのだ。

 本書では、ここで紹介した「相互作用」と「距離」に留意しながら、太平洋戦争の敗戦後に、多くの日本人がとった「だまされた」としか考えない姿勢がいま、歴史的に反復され、再び戦争に巻き込まれかねない危機的状況にあると論じる。

 

 歴史の反復を教えてくれるジャニーズ事務所騒動

 まず第1章において、ジャニーズ事務所がどのようにして多くのファンを、大多数の国民をだましてきたかについて考察する。

 といっても、ファンも大多数の国民もだまされてきただけでなく、程度の違いこそあれ、だましてきたことに気づいてほしい。ファンはジャニーズ・タレントに嬌声をあげることで、周囲にタレントの魅力をアピールし、それがジャニーズ事務所を富ませ、喜多川の性犯罪をわかりにくくしたといえる。つまり、彼らはだまされたと同時に、だます側にも加担していたと断言できる。

 第1章と第2章では、自分と自分を取り巻く共同体との距離に注目しながら、身近な共同体と遠い共同体に分けた議論を展開する。そこで語りたいのは、共同体の「内」と「外」で掟やルールが異なるという話である。ジャニーズ事務所の内部、マスメディアの内部、日本国内、そして海外といった具合に、共同体の「内」と「外」で、人間は異なる規範に取り囲まれている。その規範をうまく操作できれば、「外」から後ろ指をさされずに「悪事」を重ねることも可能になるだろう。こうした仕組みをうまく構築して数十年間も性加害をつづけてきたのがジャニー喜多川であり、そのために利用したのがジャニーズ事務所という「性加害巣窟」であった。性加害に対して、従順に喜多川を受けいれ、黙っていれば、有名にしてやるというシステムが機能していたわけである。

 これは、太平洋戦争中に「だましだまされる」という関係を日本中に張りめぐらせて日本人全体を戦争に駆り立てた構造と似ている。その構造はいまでつづいているから、日本は米中の覇権争いに巻き込まれるかたちで、再び戦争の渦中に巻き込まれる可能性が高い。歴史の反復である。

 

 洗脳される・洗脳する自分

 「外部」をだますためには、まず「内部」を洗脳しなければならない。「内」から「外」へ情報が遺漏することで、「外」から攻撃を受けないようにするには、「内」を洗脳することが何よりも求められる。それだけではない。その「内部」の掟を少しずつ「外部」へと広げ、「内」の掟が「外」でも通用するようになれば、それだけ多くの人々をだますことが可能となる。わかりやすくいえば、日本全体を「内部化」できれば、少なくともジャニー喜多川の「悪事」に蓋をしつづけることができる。

 その意味で、ジャニーズ事務所の騒動は、実は、日本全体が「洗脳」され、ジャニー喜多川の「悪事」から目を背けるようになっていたことを示している。こんな「洗脳」について、第2章で議論する。

 ここで強調したいのは、「知らなかった」ではすまされない「無知の責任」ないし「無知の罪」という点だ。戦後、日本国民は「だまされた」と思うことで、「無知の責任」や「無知の罪」から逃れようとした。その結果どうなったかというと、いま、再び戦争に向かってひた走るようになっている。人は、「だまされた」こと自体が「悪」となぜ考えようとしないのか。

 第3章では、無知自体の責任を問う。無知は「だまされた」ことに気づかないため、知らず知らずのうちに、自分自身が「だます」側に回っていることもわからない。こうして「無知」は「無知」を呼び、つまり、「伝染」し、たとえば、一大勢力、ジャニーズのファンクラブ、「ジャニーズファミリークラブ」へと結集されるように、増殖し拡散する。

 この無知の集団のなかには、自分の息子を喜多川に差し出した母親までいる。彼女たちはまさに、「無知の罪」を負っている。

 無知の伝染には、「だましだまされる」という相互作用が関係している。人間は「だまされていた」と考えることで、自らを「だまし」、慰めとして安堵することができる。こうすることで、自分が「だましていた」という側面を隠蔽し、過去の責任に目を瞑ることで自らをごまかすのである。こうでもしなければ、人間の精神はひどく傷ついてしまうのだ。だが、この「だましだまされる」という相互関係に目を閉ざしてはいけない。

 もちろん、ジャニーズ事務所やその出身タレントから距離が離れるほど、まったく無関心な人やまったく知らいないという人もいるだろう。だが、そうした人に対しても、その無知を利用して、利益をあげようとする大企業や票につなげて大儲けしようという政治家がいることに留意しなければならない。「無知は力なり」として、権力者が利用するというのは、近代国家の特徴なのだ。

 そこで、第4章では、国家自体が広義の「洗脳」に加担しているという事実について紹介する。国家主導の「洗脳」は政治指導者や官僚、学者や教育者、さらにマスメディアを通じて拡散する。その意味で、マスメディアの責任は大きい。公共放送を担う日本放送協会(NHK)が年末の紅白歌合戦にジャニーズ事務所の「タレント」なる人物を大勢出場させれば、ジャニーズ事務所が「性加害巣窟」であることに気づくのは難しくなるだろう。同じように、テレビや新聞に登場するという理由だけで影響力をもつようになる人物(多くの場合、無知蒙昧)がミスインフォメーション(誤った情報)やディスインフォメーション(意図的で不正確な情報)を撒き散らすようになる。こうして、国民全体の「洗脳」がどんどん進むのだ。

 これは、無知蒙昧が無知蒙昧をつくるという「無知の伝染」は、「だましだまされる」という相互作用を通じて加速する。テレビのいい加減な情報に「だまされた」ことを知らない無知なる者は自らが「だます」側になることを厭わない。

 ウクライナ戦争をめぐる報道でも、こうした「無知の伝染」による「洗脳」が実際に着々と進んでいることについても説明する。その結果、日本全体が戦争へと近づいているのだ。

 第5章では、「だましだまされる」という相互作用から脱却するには、どうしたらいいかを論じる。答えは簡単だ。まず、自分がだまされてきたし、いまもだまされていることを痛感することが必要だ。同時に、自分自身がだますという行為に加担してきたことを心から反省することが求められる。そのうえで、どうだまされてきたかを知ることが必要になる。そのためには、共同体の「外部」に飛翔し、共同体を俯瞰できる視角を養うことだ。過去に「学ぶ」のである。共同体の「外部」に学ぶのである。

 それには、勉強が不可欠だ。自分たちが属しているさまざまな共同体には、「だましだまされる」という相互作用にもとで、強烈にだまそうとする人がいる。テレビをつけると、一知半解で皮相な専門家が毎日のように登場し、共同体の内部者を「洗脳」しようとしている。それを信じることで、自分がだまされているとも知らずに、共同体の掟を世界中において時間や空間を越えて通じる普遍的な見方であるかのように感じている人が何と多いことか。さらに、世事にまったく関心をもたないまま、伝統とか風習とかいった価値観に縛られている者も大勢いる。こうした共同体を構成する人々がもつ強烈な影響力を断ち切るには、広範な知識と強い意志が求められることになる。そう、とにかくよく学ばなければ、こうした共同体を俯瞰するような位置には立てない。そのためには、拙著『知られざる地政学』〈上下巻〉を読むのが役に立つはずだと宣伝しておこう。

 人間は共同体から離れられないから、家庭、学校、職場、地域、国家といったさまざまな共同体に属さざるをえない。それでも、それぞれの共同体の「内部」だけに通用する掟以外に、「外部」にあるルールや規範について目を配ることができれば、「内」に広がる掟のおかしさに気づくことができるようになるはずだ。その意味で、「外部」に飛翔して、「内部」をながめてみるという視角を養うことができれば、おそらく「内部」の掟や嘘にだまされにくくなるだろう。

 ただし、この作業はきわめて大きな困難を伴っている。自分の親が洗脳されており、しかもその洗脳に気づかないまま、子どもを洗脳しているのだから。これは、いわば宗教のような得体の知れない怪物との闘いを意味しているのだ。しかも、真理を追究するはずの科学が政治化し、必ずしも真理や真実に基づいているわけではないことを知れば、ますます袋小路に迷い込むだけになるかもしれない。

 それでも、自らが「宙づり」状態にあることを知れば、少なくとも「だます」とか「洗脳する」という行為を無知のままつづけることに疑問をもつようにはなるのではないか。そして、そうした不安定な「宙づり」状態にある自分に気づくという視角をもった人が増えて、「教える」という行為を広げることができれば、教える人本人もだますという行為から身を遠ざけることにつながるのではないか。この「教える」行為ができるのは、共同体の「内部」で、国家という共同体にとって都合のいい知識を教え込んでいる教育者ではない。共同体から飛翔し、「外部」から共同体を俯瞰できる者だけが「教える」ことができる。

 実は、本書はそうした人が少しでも増えてほしいと願って書かれたものである。だが、本書を理解するには、「学ぶ」側の姿勢が重要になる。共同体の掟に安住している人が読んでも、本書の内容はわからないだろう。自分が無知であることを知り、自分の属するさまざまな共同体に息苦しさや綻びのようなものを感じ取っている人にこそ、本書を読んでほしい。きっと共同体を内部から変革するためのヒントを感じ取ってもらえるのではないか。

 

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塩原 俊彦

(21世紀龍馬会代表)

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